マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 十字架の聖パウロの手紙から

口頭(祷)の祈りを唱えている中で、深い平静をともなう念祷の祈りへの促しがあれば、口祷の祈りをひとまず脇に置き、念祷の祈りの促しに従う。その後、口祷の祈りを続ける。それぞれにあなたの祈りの時間をたっぷりとり、急がず、ゆっくりと、優しく、神の内にあなたの心に合わせて祈りを唱えなさい。
"...If, while saying these vocal prayers, you feel drawn toward mental prayer with a profound recollection, leave off the vocal prayer and follow the mental. Afterward, continue the vocal prayers. Give each their time. Recite your prayers without hurrying, gently with your spirit in God..."

~Paul of the Cross' letter to Agnes Grazi 7th letter on December 16, 1733 in Volume #1 - Paul's Letter #68

 希望の集い (9月16日水曜日)

日生中央と池田の合同の「希望の集い」が素晴らしい天気に恵まれ、大勢の参加者(47名)でよい集いになりました。名称で推察できるように高齢者の集いです。65歳から資格があるということですが、60代はわずかで、70代、80代そして最高齢(91歳)の小野とみゑさんが参加されました。ダムの中ほどに造られた公園には車いすも用意してあり、高齢者が訪問しても楽しめるところですが、交通のアクセスは悪く、車で行くしか方法がありません。


 場所:一庫ダム公園 ネイチャーセンター
    兵庫県立一庫ダム公園

 時間:11時から2時まで

 11時から野外ミサ
Mass参加者風景
 *畠神父司式、雲田助祭補佐で教会の功労者たちと共に素晴らしい景色を見ながら公園の広場でミサをささげました。ミサの内容よりも皆さんはすがすがしい秋の風と景色に見とれて時間はあっという間にたちました。共に家族の信仰の一致がみられるように祈りました。子供たちの時代、信仰を深く学ぶ機会も、また信仰の仲間を見つけることも難しい。同じ信仰をもつ希望を祈りました。

ミサ後、昼食はネイチャーセンターで:
Obento小野
小野さんのお元気な様子に、皆勇気づけられる。

挨拶踊り藤原
日生中央教会の馬戸評議会議長が挨拶、日生中央と池田の深いかかわりを25周年の行事で知ることができ、池田の諸先輩の労苦に感謝の言葉を述べられました。食後、踊りや歌で和やかな雰囲気をもち、DVDで日生中央の献堂式のコンサート、その後2001年デニス神父と共にローマ本部とヨハネ・パウロ大聖堂での十字架の聖パウロ記念ミサに参列、ローマ時代の地下の遺跡と殉教地の見学を収録したビデオを鑑賞して終了。

 百日連続共同祈願 9月15日 開始

悲しみの聖母の祝日は、百日連続共同祈願を始めるのにふさわしい祝日です。十字架の称賛の祝日の翌日に定められた祝日、十字架のイエスの傍らに母マリアが立つという姿をたえず思い起こすことによって、御子の苦しみを母の痛みと悲しみと嘆きをもって受け入れた聖母マリアの特別な位置と存在に思いを巡らし黙想しましょう。

 百日連続共同祈願には、たくさんの祈りの意向が届けられています。それらは簡単には解決しないものばかりです。

 あらゆる病院や宗教やカウンセリングに通ってもただたくさんのお金を要求され、登校拒否の子供が却って苦しみと悩みと病がひどくなったというお母さんからの電話がありました。「修復することのできない過去の闇を背負う家族や配偶者や子供たちの苦しみを、一緒に担ってくださり同伴してくださる方は聖母マリア様しかありません。」そう答えると、聖母にも祈りました。何の救いもありませんとの返事。
 
 イエス様も同じように問い詰められたことがありました。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。(マルコ9章18節)」そして、イエス様は、「この世はなんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。(19節)」それから、父親に「このようになったのはいつごろからか」とお聞きになりました。

 一つの問題には、さまざまな要因が絡んでいることがあり、そのすべての原因を探ることは不可能に近い。そして、その救いの鍵は当人のなかにあり、その問題に向き合わなければならない。だがそれはカウンセリングの可能な人の場合に限られる。統合失調症や発達障害、はじめから傷をもって生まれてきて、そして世の中の都合に翻弄されて誰からもまっとうに相手にしてもらえない。

イエス様は、こう言われました。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」同じように、デカポリス地方でのいやしも、「耳が聞こえず、舌の回らない人」に両耳に手を入れ、舌につばをつけ、そして、深く息をつき、「エファタ(開け)」と言われました。一切の自分以外の外の世界を信じることができず閉ざされた中にその人は生きているのです。そして、自分をも信じることができない。このように閉ざされて口もきけず、耳も聞こえない状態になるまでに、どれほど多くの複雑な事情に翻弄されたことでしょう。彼の側に立つならば、その怒りがこみ上げてくるでしょう。この世界の身勝手さが・・・イエスもこの子の側に身を置いて嘆息されたのです。「息をつくのは」のは祈りの動作ですが・・・この子のために祈る人たちがなければ癒されない。わたしたちには直接なにもしたあげられないけれども、祈りのうちに、この子の生育の過程で受けた傷を、私たちが与えたものとして一つずつ数え上げながらこの子にゆるしを願い、あなたを愛すると呼びかける。これがいやしの始まりになることでしょう。

 人生の道では、イエスは道であり、聖霊は案内者です。そして同伴者は、聖母マリアです。聖母マリアは、一人ではなく、教会の母といわれるように教会の姿を現します。聖母が最後まで十字架の傍らにおられたように、教会もまた現代の十字架の苦しみに遭遇する人々、神を信じきることのできない人々の傍らで、最後まで父を信じで十字架の苦しみを受けた御子の母として、同伴して慰めと力づけをとりなしてくださいます。

 「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」
イエス様は、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。わたしたちの百日連続共同祈願は、イエスの祈り、御父へのささげの祈りに与るように毎日願います。確かに、わたしたちは不信仰で、祈りの力を持っていません。でもあわてずに忍耐して祈りましょう。わたしたちは、迷路にはいったり、迷子になった時、あわてるとますますパニックになって分からなくなることがあります。かならずなんとか出口はある。それを知っているので、今分からなくても何とかなると思っています。だから、神は追い切れないほどの荷を負わすことはないとわかるので、救いの道は必ずあると信じることができ、解決のヒントを思いつくことにつながります。詩篇には、救いの業、神の素晴らしさを一つずつ数え上げろということばがあります。一つずつ数えげるというところに力があります。賛美の心へと変えられることでしょう。


 母親の訴えに私たちはどう答えましょう。母の訴えは、お弟子さんたちも、できませんでした。病院や警察、祈祷師、占い師、心理療法士、精神科医も何もできませんでした。息子はいつ自殺するのかと恐ろしい毎日ですと・・・。わたしは、百日間そのことを覚えて、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。ただただ、主イエスの祈りに信頼してゆだねましょう。祈りは愛ですと答えました。
 
 皆さまも お祈りください。皆さまも、また母マリア、主イエスの十字架に傍らに立つ悲しみの聖母として、救いの協力のためにたくさんの涙と祈りをおささげしてください。聖モニカのように、聖マグダラのマリアのように・・・愛の勝利を歌う聖人たちと共にあなたもイエスの傍らいてください。

 悲しみの聖母 (御受難会の特別保護者)

九月一五日 悲しみの聖母
御受難会特別保護者 (御受難会固有祝日)

伝統的なものを引き継ぎつつ、一九六四年の第三八回総会で満場一致の賛成によって、悲しみの聖母はわたしたちの修道会の第一級の保護聖人として定められました。これは一九七二年に第一回世界シノドスで、新しい御受難会固有のカレンダーが準備されるに当たり、関係者の問合せによって確認されました。総長顧問会はそのような決議やそこに出席しているすべての修道者の円満な同意を見て、教皇庁に公認を求める手続きをすることを決定しました。教皇パウロ六世は、一九七三年三月八日付の短い書簡の形による使徒書簡「Quam Ardens」によって「悲しみの聖母マリア」が御受難修道会の第一級の保護聖人であるとして公認し宣言しました。
悲しみの聖母の祝日を祝うことは、聖母とともにキリストの御受難の神秘の中に参加を深める機会をすべての御受難会員に提供するものです。彼女を崇敬することは、創立者の足跡に従うことでもあります。創立者は個人的な信心によっても、手紙や説教、すべての使徒職の働きの中でも、御受難の中で聖なる御子と一致している聖母を深く崇敬していました。

賛歌
   ①

十字架の下に御自分を置き、
母は嘆きつつ泣きながら、
最後までイエスの傍らに立たれた。

悲しみの母は、
その汚れなき御心を通して、
イエスの悲しみを分かちつつ、
すべての苦き苦しみを耐えておられる。
剣はその御心を刺し通した。

一人子を深く祝された母は、
どんなに悲しみ痛みを持って苦しまれたことか。
キリストは苦しみの十字架の上に、
母はその下で、
死に行く栄光の息子の心痛を看とられる。


その悲しみが深すぎるため、
涙することなき方が一人。
苦しむキリストを
見つめ続ける敬慕すべき母
言葉なく苦しむ母のその心を、
人間の心はどれだけ味わいつくし、
反復することが出来ようか。

打たれ、嗤笑され、呪われ、汚された心を…。
むち打たれ血塗られた、
いつくしみそのものの息子を見つめる母。

同胞の罪の故に、命が取られるまで、
絶望的な十字架につるされている御子を看取る母。
キリストよ、あなたがわたしを呼ばれるとき、
あなたの母がわたしの避難所でありますように。
あなたの十字架が私の勝利でありますように。
アーメン。




   ②
アダムの悲しい罪の後に、
彼の子供等は自らの運命を見た。
正義は為されなければならなかった。

失われた恩恵、悲しみ、反逆者の肉、
暗い死、祝福されながらも無効にされた希望。
これらすべては罪深い民の上に押し被せられた。

だれがこのアダムの子供を助けるのだろうか。
神お一人ががそうされなかったなら、
神以外の誰がそれを完全に贖うことが出来ただろうか。神以外の誰かを捜しても無駄だ。

神御自身こそが
重荷を負う肉なる者を保証されたのだから。
神は苦しみ、償う。
わたしたちに対する愛のあまりに、
ご自分で罪を贖われる。

これがすべてではない。
イエスの母は共に立つ、
わたしたちが贖われるために、
イエスの御受難に
母の悲しみを添えて参加されるのだ。

私たちの確かな母であることを証する
悲しむ母の姿を、
わたしたち皆はいつも思い起こす。

栄光は父と子と聖霊に。
初めのように 今も いつも 世々に。 アーメン。
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 十字架の称賛の祝日

十字架の称賛の祝日は御受難修道会にとっても会の固有の祝日です。

 この日の時課の典礼の読書課では十字架の聖パウロの手紙が会員にとっては決められた朗読箇所になります。

 読書課
第二朗読 
十字架の聖パウロの書簡集より
(Lettere II,825; 1, 184, 275,277)
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 堅信式のためのノベナ(9日間)の祈り

北摂地区大会(聖パウロ年を記念して)
 聖母被昇天学院 9月23日 (水)

 午前10時から12時まで
 司式 池長潤大司教

 受堅者 八教会

 皆様の御祈りをお願いします。 14日から22日までの9日間
 聖霊の続唱を唱えましょう。

 9月13日 箕面教会 北摂地区宣教評議会で大会の計画案の詳細について実行委員の花木さんから報告があり承認された。新型インフルエンザの対応について 学校の対応に準ずる。 9月19日の時点ですべて決定する。 北摂01

 識別を学ぶ基礎

 「人間として識別を始めるために」 「研修会プログラム」Ⅰ

売布 宝塚黙想の家
主催 祈り推進チーム (大阪教区)
   松本、末永、泉水、高橋、Sr阿部、FR畠、
日時 9月11日~13日 
講師 アモロス神父
   Srテレシータ
   Srロサリア
   Sr阿部

参加者 22名+講師陣

テキスト:心理的・霊的成熟を目指して
     CARLOS RAFAEL CABORRUS, s.j.

研修会風景:
識01
グループ作業
識01
ミサ
ミサ03
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 悲しみの聖母のノベナの祈り (続)

「悲しみ苦悩する全ての人のため悲しみの聖母修道院(宝塚市売布山手町1-2)では、女子御受難会員が十字架のもとに立たれる聖母マリアの取り次ぎを求めてお祈りしています。」との伝言を院長様から預かりました。
 
 11年間連続年間自殺者数3万人を超える日本、今年は4万人を超えるかもしれません。これはイラン・イラクのテロ被害者や戦死者よりも多いのです。
 明日からうつ病の対策週間が始まると聞きました。長期間、うつで、いつ治るともわからない抑圧された気分の晴れない生気のない毎日を送っておられる方々のために 祈りましょう。

聖母の悲しみのノヴェナ (Benedictine Booklets)

  ああ 聖なるおとめ、苦しみに貫かれたおとめ、殉教者の元后よ、
あなたは 十字架のもとに立ち、死に逝く御子の苦悶を目の当たりにされました。
あなたの一生涯の絶え間ない苦しみ、そして今は過ぎ去った試みに報いて余りある至福を通して母の優しさと憐れみをもって、私を観て下さい。
あなたの悲しみを崇めるため御前にひざまずき、子供の信頼をもって、傷ついたみ心の至聖所でお願いします。
イエズス・キリストのいとも聖なる御受難と、あなたの十字架のもとでの苦しみの功徳によって、私自身のためにもお願いいたします。
どうかお二人の一致によってお聞き入れ下さい。
おお、憐れみの御母よ、あなたは御子の杯を底まで飲み干されましたから、
私の今の必要と惨めさをあなた以外の誰に持って行けるでしょうか?
あなたこそは島流しの世で未だに嘆息する者の嘆きに同情することがおできになります。
                                   アーメン

わたしの祈り:わたしたちはこの世では島流し、「捕囚の民」との理解です。シスターマリア・ドローレス長谷川(韓国御受難女子修道会所属)の訳です。荒野での試みの時、イエスのことばは力強い。「人はパンだけでは生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばによって生きる。」現代の荒野のなかで、パンのためにだけ働くことに病みつかれている。「神のことばによって生きる。」神を信じることのできない現代の状況の中で、このことばは虚ろに響くのだろうか?信じたいが信じられない。自分を明け渡し、ゆだねることができない。これはなぜだろう。御子と聖母の二人の愛と信頼は死をもいとわず、御父のみ旨として最悪の悪を受諾した。御父への信頼を貫くことによって、不信の壁を打ち砕き、和解の恵みをわたしたちにもたらすために罪のあがないとなった。愛は悪の企てを無にする。このことに力づけられて、原罪のように自分にのしかかる十字架を神の意志として受けとめる恵みと力を願い求めましょう。
 わたしとわたしのかかわりのある方のすべての罪のゆるしと恵みを願って

*  悲しみの聖母への祈り
おお、愛と悲しみの御母よ、
あなたは世がイエズスを捨て去ったとき、忠実に留まり、
主を慰める者が誰もいなかったとき、主とともに悲しまれました。
どうか私たちに、あなたがイエズスを愛されるように愛させて下さい。
そうしてこのような愛をほしければ、常に苦しまねばならないなら、そうさせて下さい。
どうぞ私たちのために取り次ぎ、神様の御手から来るものを全て好み、
苦しみ、悲しみ、死さえも主からのものとして愛させて下さい。  アーメン

おお マリアよ、御悲しみの功徳によって常にあなたの忠実な子とならせて下さい!
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 十字架の聖パウロの手紙から

アグネスへの手紙の中で 信心をするためにできるだけよく寝て、頭をすっきりさせておくようにとの指示です。 今は毎日が寝不足で、病人訪問をするのを控えています。これがメールで飛んできたのは私への警告のためかもしれません。タイムリーです。

"... keep yourself recollected; keep your spirit raised...; take what nourishment you need out of love for God; sleep as much as you need so that your head may be clear and prepared for your exercises of piety."~Paul of the Cross' letter to Agnes Grazi 4th letter on August 10, 1733 in Volume #1 - Paul's Letter #62

 悲しみの聖母のノベナの祈り

9月15日は悲しみの聖母の祝日です。 それに先立って9日間の祈りがささげられます。百日共同祈願はこの日から始めますが、今続々とハガキが到着してます。

 悲しみの聖母のノヴェナは 九日間の祈りで 9/4日から 12日まで(13日は十字架称讃の前晩なのでその前に終わります)。
わたしはどのように祈るのかよく分からないので御受難会の悲しみの聖母修道院院長に聞きました。
女子修道院では次のようにしているそうです。
 「私たちはずっと 伝統的に守っています。
ひばりヶ丘ではずっとバイブルヴィジルの祈りをしていました。
第一日目はノヴェナの初めでモノローグといったところ
第二日目から悲しみの聖母の7つの御悲しみの一つずつを第8日目まで黙想します。第9日目は結びの日でエピローグといったところ。
個人的に、悲しみの聖母の道行きをしたり、悲しみの聖母のロザリオを唱えたりもします。」

悲しみの聖母の伝統的なラテン語の祈りを掲載します。
八百年間教会の中で祈り継がれてきた祈りです。
生命山のフランコ神父さんが訳しました。
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