マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 大掃除 (8月30日)

選挙の日、池田教会は恒例の教会全体の大掃除

聖堂やカール記念館、外回りなど教会全体が動きました。

そうじ01大聖堂の床を洗剤で洗い落とし
そうじ02聖堂の祭壇、椅子、など移動して、小聖堂はすす払い。

そうじ04
拭いて乾かしワックスを塗る作業です。白浜さんが専門職を活かして一人でワックスを塗りあげすべて完了。 
椅子の移動に皆が力合わせて1時にはほぼ仕上がりました。
ビールで乾杯!
選挙の日ですので皆さん投票に!

 年間第22主日 8月30日

主よ 
憐れみをわたしの上に
わたしは昼も夜も
あなたを呼び求める。
あなたは心広く、慈しみに満ち、助けを求める人に恵みを注がれる。
(詩篇 86:3,5)

ことばの典礼:
 申命記 4章1-2節 6-8節
 使徒ヤコブの手紙 1章17-18、21b-22、27
 マルコによる福音 7章1-8節、14-15節 21-23節

 説教のポイント:
 連続的に5週間主日の福音朗読に、ヨハネの福音6章全体の継続朗読が語られ、聖体のカテケーシスが説教で十分になされた後の主日の朗読、マルコの福音は、汚れについて語る。何が私たちを汚すのか? ともすれば、これはありきたりの道徳論に聞こえるが、第一、第二朗読を重ねて読むと、ミサの聖体の秘跡をいかにふさわしく準備し受け取るかの話題になっていること気づく。

 「いつ呼び求めても、近くにおられるわれわれの神、主のような神をもつ大いなる国民がどこにあるだろうか。」とイスラエル民は、主を知る恵みを感嘆し、その主の道を歩むトーラ(律法 道のともしび)をたたえる。新約のわたしたちにとっては、みことばが人となられた方のことばと行いに従う道です。この道はイエスの霊、聖霊こそが私たちの心の律法となる道です。福音が語られるところでは、人は心を開く限りキリストの霊に満ちた恵をうけとることができる。

 信仰を実践しながら次第にローマ帝国内の繁栄の世の中と妥協して生きるユダヤ人キリスト者への訓戒のようだとは聖書学者の解説にありました。みことばを受け入れること、それは小さな人々に対する愛の配慮と世の価値観に染まらないようにという勧めです。ご聖体をいただきながら、主のことばと行いにふさわしくない態度でいきることはできないからです。
 福音書では、人を汚すのは中からということです。聖霊の実りについての聖パウロのことばを思い出せば、同じことが言われています。ガラテヤ書5章19節には霊の実と肉の業のリストがあるからです。聖霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はないと断言しています。肉の業は、マルコは12の悪、パウロは15の悪を挙げています。「聖霊なしにはすべては無駄」とはアルスの聖人ビアンネのことばですが、聖体(秘跡)とゆるしの秘跡と愛の業は神の国を告知する宣教の業です。一つの愛の神秘を形作ります。

 ところで、古い言い伝えと神の掟の対立は今日では、聖体に巡っての秘跡の授け方で世界中に流布した方法、手で拝領するに対して、教皇様がかなり礼拝の対象に対する尊敬が足りないことに非常に危機感を持っておられることに注目したいと思います。教皇様はいつも本質論から語られるので、完璧までに正論なのです。
教皇の著書、キリスト論「ナザレのイエス」の第5章の主の祈りの解説の中で、「あなたのみ名が聖とされるように」の中で聖体の現存をてにする私たちの手の中にまで自らを委ねられるキリストの現存の神秘に対して、わたしは充分な畏敬の念を持ってい対しただろうか?と反省を促しておられるます。
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 結婚式

午前11時より結婚式が行われました。

新郎 島上 慎三郎
新婦 楞川 慶 子

司式司祭 ウォード・ビドル師結婚4

今朝は にぎやかな声がして若者たちが教会に集まってきました。式典を準備する婦人たちも大勢繰り出し、教会の子供の新しい門出を皆で喜んで祝いました。

 記念写真
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 結婚1
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結婚3
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 第八回百日連続共同祈願へのお招き

第八回百日連続共同祈願への招き

+主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに籠

キリストにおける兄弟姉妹の皆様へ
まだ暑さの厳しい毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか? お祈りの内に皆様のことを思い起こしております。 
さて、第七回目の百日共同祈願は、8月1日に最終日を迎え、通算700日目となりました。皆様の祈りの支えに感謝申し上げます。この日、わたしは、第14回聖霊による刷新関西大会の参加者とともに100日目の感謝の祈りを捧げました。
この度100日間が終わってみると、祈りの輪に加わった人が新規に50名ほど増えていました。共同祈願の参加者数は740名ですが、発送名簿は900名を超え、ハガキでの意向のカードの枚数は、850枚を超えました。数名の方が、ご自分の意向の他にたくさんの方々のための意向を一枚のはがきに一つの意向を託して祈りの輪に参加されたからです。典礼の中では、個人の意向を人前で声を出して祈ることをしませんが、百日共同祈願の形で、人に知られたくない神への切なる叫びと願いとを、ミサの奉納時に、皆様から送っていただいた850枚に及ぶカードを入れた籠をささげることにより、沈黙のうちに意向を祈りました。多くの方々が、同じ時間に心を合わせて祈っておられることを思い起こしながらミサをささげ、皆様の願いをとりなすことができたと思います。そして、この100日間も無事一日も休むことなくミサをささげることができました。

100日間の祈りといえば、わたしの幼いころ、故郷の京都市内の神社仏閣で御百度詣の祈願をする人の姿をたびたび見てきました。平安時代から発展した神社参りの風習は、無病息災、家内安全、商売繁盛、先祖供養、回向、厄払いなど、病気平癒や念願成就の現世ご利益を願う日本人の宗教心に根ざしています。しかし、百日共同祈願は、御百度とは似ても似つかぬ祈りで、これは、御父のみ旨を果たすために十字架の死をうけいれられたキリストの奉献に心を合わせる祈りです。「その日には、あなたがたが、わたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23-24)、そして、父に願うならば、もっとも良いもの、すなわち「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)ことが約束されています。わたしたちの祈りは、現世御利益よりももっと深い根源的な救いの喜びと神との永遠の命の交わりに至る道を願っております。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)わたしたちの祈りは、永遠の命へと互いを結び合わせる大切な絆だと思います。
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 8月26日 神の御母 福者ドミニコ・バルベリ 記念

「神の御母のドミニコ」として知られるドミニコ・バルベリは1792年ヴィテルボ(イタリア中部)に生まれた。22歳の時、神から使徒職への召命を受けた。農場での仕事を辞め、御受難修道会に入り、精神と心における類まれな才能を発揮した。1818年司祭に叙階された後は、教職、司祭職、霊的指導を務め、哲学・神学・説教などの文筆に精を出した。十字架の聖パウロの精神に満ち、特に英国の人々を教会の一致へと導くことに力を注いだ。1840年にベルギーに御受難会を設立した後、1842年に英国に渡り、神が召し出された使徒職に疲れることなく生涯を捧げた。多くの英国国教会の人々がカトリック教会にやって来たことは彼にとって大きな慰めとなった。そうした人々の中に、高名な枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンがいる。1849年8月27日、レディングにて帰天。
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 2009年 メンズ クラブ

8月22日(土)~8月23日(日) 信州憩いの旅
参加者人数  女性 10名 男性 13名
 池田教会  女性  9名 男性 11名 
 日生中央  女性  1名 男性  2名

恒例の年に一度のメンズクラブの宿泊旅行、旅行先の教会交流の親睦も大きな目的で、今年は飯田教会を訪問し、主日のミサで共に賛美をささげた後、信者の方々が用意してくださった心づくしの手料理と畑からの取り立てのトマトなどをいただきながらしばし交歓の時をもつことができました。昨年から女性も加わり、日生中央との合同の壮年親睦旅行になりました。男性は豪快な飲みっぷり自慢が多数参加。旅行のスナップ写真をどうぞ・・・
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 池田(9:00)  = (1)<中国・名神高速> =小牧 (昼食・
 (市役所前集合) 

 名古屋コーチン12:30 =<中央道> 妻籠宿・散策(2)=

 
 木地師の里(16:00)(3)= 昼神温泉(16:30)夕食(18:30~20:30)


8月23日(日) ホテル(4)= カトリック飯田教会(5) =
                10時~11時40分

元善光寺(6)拝観・法話12:20~40)= 野沢菜センター(昼食)13:20(7)  


<中央 ・名神> =  池田 17:50頃 

旅行の一コマ、スナップ写真をどうぞ・・・
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 堅信を受けるあなたへの手紙(2)

✞被昇天の祭日 おめでとうございます。
 
残暑の暑い毎日が続きます。みなさんはいかがお過ごしですか?
 前回の手紙に続いて、堅信の準備の手紙、第二弾です。

 9月23日の堅信式まで時間があるようですが、あっという間に来てしまいます。それで、前回みなさんにお贈りしたテキスト「聖霊とともに」を一緒に読んでみましょう。この本には、「You are not alone!」とサブタイトルがありますね・・・皆さんは一人ではないのです。そして、「大人のための堅信の手引き」とあるので、自分には難しすぎると思った人もおられることでしょう。
でも、信仰は、イエスについての知識を増やすことではなく、イエスと友のように親しくなりイエスを主として知ることなのです。読み書きができる中学生にもなれば、十分な知識を増やすことができるでしょう。しかし、イエスを友のように親しくなるためには、どうすればよいのか? それは、大人にはかなり難しいのです。それを教えてくださるのが聖霊です。聖霊が一番の私たちの導き手です。この方がどういう方なのか、何をしてくださるのか、どのようにすれば聖霊に導かれるのか? そんなことを予備知識として持ち、祈りの時に聖霊に親しむ習慣を学ぶのが堅信準備講座です。

 最初の章は、「聖霊の導きの必要性」についてです。
 「わたしたちは深い信仰をもち、イエスの歩まれた道に忠実に従いたいと望んでみても、実際には他の多くの人々と同じように生きているのです。」
どうでしょうか?皆さんは、「他の多くの人々と同じように生きているのです」という表現をどう感じましたか? 同じだと思いましたか? 皆さんは、洗礼を受けた信者で、信者の家庭にいます。日曜日にはミサに与ります。どこか他の多くの人と同じですか? 違うところがありますか?

 「人生は終わりのない戦いです」と次のパラグラフにあるように、わたしたちは、人生において「他の多くの人々同じように、成長の各段階で、より大きな夢を追うたびに、チャレンジを受けます」。「神の呼びかけに答え、一人で未知の暗闇を歩く」こともあると書かれていました。わたしたちは、このような人生のチャレンジの時に、信者であることは何かお恵があるのでしょうか?ここで人生における「信仰」の意味を考えることは人間として大きな成長の助けとなります。

「信仰」ということばは、抽象的です。具体的にみなさんに考える材料としてこの質問をしてみましょう。この世界は偶然にうまれたのですか? あなたは偶然に存在したのですか?最初の問いに対しては、多くの人はビッグバンで生まれたのだと偶然に宇宙が始まったと考えていますね。あるいは誰も考えても分からないことだから考えようともしません。でも第二の問いはどうでしょう? あなたは偶然に生まれたのですか? どうしても偶然にわたしは生まれたとはいえません。誰かが望んだからあなたは存在しているのであり、あなたが生まれる前に両親があなたの存在を望まれたのです。では、第一の質問はどうでしょうか? この世界が神の愛によって生まれたと信じるのは信仰者です。この世界が偶然に生まれ、自分の存在も偶然のいたずらだと考える人は、愛の神を否定します。第二の質問も、すべては人間の意志によって決定されると考えると、人の命は人間の判断によるということになります。生むか生まないかの決定権は人間にあるという考え方です。両親の決定以上に、いのちは神からのもので、両親にも一個の生命を奪う権利がなく、望もうと望まないとわたしが存在するのは神の愛によると考えるのは信仰者です。また、第一の質問に対して、神の創造を信じる人も、第二の質問に対しては、人間の幸せのために必要なら生命を奪うことも許されると考える人もいます。これは、「多くの人と同じように生きている」といわれても仕方がありません。信仰と生活の分離です。信仰のない人は、第一の質問に対しては、偶然でも神の創造でも大した違いはないと考えており、第二の質問に対しては、現在の生きている人の幸せを基準に考えるという立場ではないかと思います。あなたはどのように考えているでしょうか?



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 年間第20主日  B年

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である。

 第一朗読  箴 言   9章1-6節
 答 唱   詩 篇   145章
 第二朗読  エフェソ  5章15-20節 

 福 音   ヨハネによる福音 6章51 -58節 

 年間17主日から始まる21主日まで福音朗読はヨハネの福音6章が継続的に取り上げられてきました。この期間は、ちょうど夏の行事が重なり説教の準備に時間が取れなくなりました。申し訳ない内容ながら、その都度準備なしに話したので、内容を覚えていないのと覚えていることはどこかからの本の材料や資料で、それをかいつまんで話していたような次第でした。それですこし振り返ってみれば、わたしの説教はそういう組立になっているのですね。できるだけ福音自体に話してもらおうと思うのです。福音の内容は、毎回示唆に富み、教えられるところが多く、やはりみことばは命の糧であり、わたしたちを生かすキリストの肉と血であり、わたしたちと一体となり、キリストが私の内にいるという意識を超えて、私たちはキリストのからだの中にあるというおおきなぬくもりを感じます。
 
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 聖母の被昇天

(典礼の朗読箇所、公式祈願文は A、B、C年 共通)

 第一朗読:
 ヨハネの黙示 11章・19a、12章1-6節、10ab
 第二朗読:
 使徒パウロのコリントへの手紙 1コリント15章20-27a
 
 福音: ルカ1章39節~56節
 
 マリアの賛歌(マニフィカト)は、毎晩 マリア自身の歌を教会の祈りの歌として歌う。小教区ではこの歌を一緒に歌うことができないのが残念です。この歌には、福音の希望が語られる。まさに神の国は愛と正義が抱きあう恵みの日を神様が実現してくださるからです。

 主がはしために目を留めたから、このはしためは今、救い主である神をほめたたえ、将来は、いつの世の人もわたしを幸いなものと言う。50節まではマリアの個人的な体験が先どられ、51節以降は、神の国が実現する希望に満たされる。歌のテーマは、主なる神のあわれみは主を怖れるしもべやはしための上に、世々限りなくとこしえに続くことを述べるが、それはマリア様において聖霊が降り、みことばが肉となることにより、神の国が始まった。

 貧しい人のテーマが始まり、貧しい人の祈りが聞き遂げられる。イエスの十字架の贖いの死により、神の国が成就したからです。貧しい人が祈るのは難しい。飢えや病気、人間らしさを奪うあらゆる差別と不当な扱い。十字架のイエスは、その姿にご自身の姿を現され、呪いのしるしを祝福に変容することをなさったです。他者の救いのために命を与え、赦しを祈ることを教えてくださいました。ヨブが祈った時、すべての呪いが解けて、以前にもましてヨブが祝福されたように、あらゆる隔ての壁が打ち壊されます。神の国はこのように始まっているのです。加害者の罪のゆるしを願う祈りよりも、被害者が加害者をゆるしと救いのために祈ることの方が神はより多く聞かれる。これは和解と一致のための神のなさり方のようです。人間的にはとても苦しく、時間と熱意のいることですが平和のための道なのです。キリスト者には、すべてのことがらに、苦難すらを賛美と感謝をささげて神の栄光をたたえるのは大いなる救いです。

 
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 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者

8月14日(金)
 入祭唱
 わたしの父に祝福された人たちよ、あなたたちのために用意された国を受け継ぎなさい。わたしの兄弟のもっとも小さな者の一人にしたのはわたしにしてくれたのである。(マタイ25章34、40)毎日のミサ

 集会祈願
 信じる者の力である神よ、あなたは聖マキシミリア・マリア・コルベの心を汚れないおとめマリアへの愛で燃え立たせ、宣教の熱意と隣人愛で満たしてくださいました。聖人の殉教を記念し、その取次を願うわたしたちが神の国のために自分を捨てて人々に仕え、死に至るまで御子イエスに従うことができますように。

 集会祈願に、コルベ神父の聖性の特徴が描かれています。一週間前には、聖コルベ記念館を訪問して、日本での生活は使徒職の一端を味わうことができました。
<聖コルベ記念館で検索>
 http://www1.odn.ne.jp/tomas/seikorubekann3.htm

 コルベ001
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