マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 第23回百日連帯共同祈願ミサ

第23回百日連帯共同祈願ミサへの招き


✞ 神の賜物を再び燃え立たせるよう勧めます。(第二テモテ1・6b)
親愛なる兄弟姉妹の皆さま

 第22回百日連帯共同祈願ミサは、8月25日無事に満願日を迎え、第17回聖霊による刷新関西大会の派遣ミサで皆様の祈願を奉納しました。さらに、9月2日から行われた司祭修道者の刷新黙想会において引き続き共同祈願を延長し奉納しました。

 前回、ウガンダのアフリカ大会に参加することを書き、皆さまの祈りのバックアップを受けてすばらしい旅になりました。アフリカ全土から集まった賛美の集いのリーダーたちの力強い祈りと体全体に満ち溢れる賛美のリズムが主の復活の喜びを肌で感じることができました。特に中心になった講師は、教皇庁正義と平和の評議会会長のピーター・カークソン枢機卿(ガーナ―出身)でした。枢機卿は、長崎、広島の式典に参加したとのことで、日本から来た私には励ましの声をかけてくださり、また会場のあちこちで、参加者から日本はどうなのかと聞かれました。“How is Japan?” 日本は元気かは直訳ですが、つまり東日本大震災で受けた被害や福島の原子力第一発電所の爆発事故について、その後どうなのか?アフリカの奥地でも皆心配して祈ったとのことです。
 
 先進国日本の発展の中で忘れ去られた”神の存在“は、彼らにとっては大きな関心事です。同じビクトリア湖畔のスペケ国際ホテルには、わたしたちの大会と日程が重なって諸宗教の宗教者の国際会議も別の会場で行われていて紛争を解決するための対話が持たれていました。アフリカの「病」に対する処方箋は、汚職体質を撲滅し公的機関の信用回復と環境保護の啓もう活動です。宗教者たちの宣教活動は、アフリカの非人間的な状況からの解放を教育、病院、社会制度などの面で地道に活動してきたのです。しかし今やその活動がテロリストたちの標的になり善意の奉仕者や活動家を脅かしいています。
 
 赤道直下に位置する東アフリカのウガンダは、日本の本州ほどの広さの小国で、キリスト教徒は90%を超えるキリスト教国です。20数年前には北の国境付近で200万人の難民を生み出しましたが、現在はキリスト者であるムセベニ大統領により長期安定政権を維持して治安もよく貧困状況から離脱した国です。ウガンダの国民の48%はカトリックで、聖公会の36%と共に村々にまで小教区、巡回教会が置かれ、司祭修道者の召命も多く、レジオ・マリアの活動とともにカリスマ刷新の祈りの集いは小教区の中に組織され、信徒の奉仕者のリーダー教育と啓蒙活動に力をいれているとのことでした。大会の最終日には、1964年に列聖された殉教者、聖カロロ・ルワンガと同志殉教者の巡礼地を訪問し、列聖50周年記念ミサが行われました。アフリカ全土のカリスマ刷新家族の集いが、殉教者の地ウガンダで行われたのは、キリスト者に対する迫害と殺略の事件が日常茶飯事のように報道されるなかで、聖霊の賜物が豊かに現れ、小教区で賜物による奉仕が教区で認められ、現実に活動している刷新のあるべき姿が他のアフリカの国々の教会の将来の姿となることを期待したものと思います。

 ところで、ピーター・カークソン枢機卿の講話は、「Going out (出て行く)」という表題でした。これは、主催者側が、教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」を念頭に置き、第一章 教会の宣教の変革の最初の項目と同じ主題「出向いて行く教会」の意味を重ね合わせて、枢機卿に講話を依頼したようです。枢機卿は「Going out(行きなさい)」のテーマだけをローマで受け取って来たので、カリスマ刷新の大会で何を話したらいいかわからないがと、聖書的なアブラハムの「旅立ち」や、モーセの出エジプトの「脱出」や、エレミヤの預言者の召命物語にある「派遣」などを説明して、今日的な意味とイエスの「宣教命令」を生きる上のチャレンジ(挑戦)について語られたように思います。まさに教皇フランシスコの本の内容と重なっていました。「五旬祭の日に使徒たちから『自分の故郷のことば(使徒言行録2・6)で説教を聞いて最初に回心した人々も、驚嘆に満ちてその喜びを味わいました。この喜びは、福音が告げられ、実を結び始めていることのしるしです。けれども、この喜びには、脱出と自己犠牲、すなわち自分自身から出て行くダイナミズムが伴います。それは、つねに、新たに、より遠くに、種を蒔き続けることです。』(「福音の喜び」21項 p29) 

 聖霊による刷新が、内的なグループにとどまらず、教会の核として「本来的に宣教を生み出す」(同上23項p30)恵みの源泉となるために「あらゆる人に、あらゆる場所で、あらゆる機会に、ためらうことなく、嫌がることなく、恐れることなく、福音を告げるために出向いていくことは重要です。」(同上23項p30)

 それでは、「聖霊による刷新」は、福音を告げるためにどこに出向いて行くのか?今年の夏の大会では、シリル・ジョン氏は、聖霊降臨を体験した使徒たちは、「Fellowship」(交わり)に向かったと言明されました。教会の原点というべき、「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(使徒2章42節)」初代の教会の模範です。教皇フランシスコも、「福音の喜び」(29項p36~37)で、「小教区における豊かな現実との関係を失うことなく、喜んで部分教会の司牧組織の一部となるのが非常に健全なことです。」と、種々の運動体や諸団体、つまり聖霊によって生じた公会議後の刷新運動が根無し草の放浪者となることを避けなければならないと述べておられることを真剣に考慮して活動していかなければならないということです。そして、教会に「福音宣教の新たな熱意と世界と対話する能力」(同書29項)をもたらして教会を刷新する奉仕を目指さなければならないと思います。これは大胆なことですが、謙遜にことは始めなければ何もなすことができないと思います。

 「福音宣教の新たな熱意」として、わたしたちは頂いた「聖霊の満たし」の恵みの本質を理解して仲間に、兄弟に、家族に、そして教会共同体に伝えたいと奮闘しています。

 前回は、名誉教皇ベネディクト16世の「ナザレのイエス」(第二巻第5章)から得た知識を土台に、「祈りの集い」で行われる賛美がミサと無関係の賛美でないことをお伝えしたかったのです。「祈りの法は信仰の法」といわれます。「典礼」の中にカトリック教会の豊かな信仰の宝があり、聖霊による刷新は典礼の宝を燃え立たせる働きがあるように思います。聖霊の油注ぎによって信仰が燃え上がり、典礼のことばとしるしが聖霊の息吹によって生き生きと祝われるようになることを経験するからです。そして、第17回聖霊による刷新関西大会では、三日間を会場全体が「高間(二階の広間)」での出来事を祝うという典礼の枠組みを意識して取り組みました。聖週間の典礼の一部を取り入れることで、洗足式、十字架の礼拝による回心への招き、復活ローソクと洗礼の約束の更新、堅信の更新など秘跡によって受けた聖霊の恵みを燃え立たせることをしました。聖霊による奉仕の賜物(カリスマ)を受けて派遣されるために、イエスと同じ僕の姿を通して奉仕する必要があることを典礼の行為によって確認できたと思います。わたしたちの聖霊の賜物の奉仕は、新しい愛の掟、「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34、15・12)によって、「これをわたしの記念として行いなさい」というイエスの十字架に至るまでの愛と従順、イエスご自身の従順を反映し伝え奉仕する者として派遣されるはずです。羊の世話をする恵みの分配者であって管理者ではありません。
 
 ところで、わたしたちは教皇フランシスコのイタリア大会(6月1日)での刷新に対する期待のなかで、刷新の初期の頃、皆熱心に聖書を持っていたこと指摘され、今もそうしていますかと聞かれました。この聖書を大切にする必要性は、聖書の民の存続にかかわる重要な意味があることを理解するとすんなり納得できるのです。つまり、ミサのことばの典礼の由来は、ユダヤ教の安息日の会堂(シナゴーグ)の典礼と深くかかわっていることを、5月の関西地区での祈りの集いの勉強会で聖霊に導かれて理解できました。

 この時の主題は、「主の日 -日曜日の重要性」(聖ヨハネ・パウロ二世教皇使徒的書簡)です。聖霊の年の聖霊降臨の日に発布されたこの使徒的書簡は、「主の日」を祝う意義を余すところなく解き明かしている書です。「聖霊による刷新」の中心的な体験、「イエスは主」であるということを簡潔に表現しています。21項「キリスト者には、・・・キリストに対する賛歌を神に対するかのように歌う」という習慣がありました。そしてキリスト者たちが『主の日』について語った時、かれらはこの表現に復活を告げ知らせることの十全な意味を与えて、『イエス・キリストは主である』(フィリピ2・11、使徒2・36、1コリント12・3参照)と語りました。こうしてキリストには、70人訳聖書が旧約の啓示において発音してはならなかった神の名『YHWH』を翻訳するときに用いていたのと同じ称号(主)が与えられました。」(p29)こう告白することは、「聖霊によらなければ誰もイエスは主であるとは言えないのです(1コリント12・3)」。これが聖霊刷新の満たしの共通体験です。聖霊に満たされると、主の日は、新しい創造の日、主の復活を心からすなおに喜び祝えるのです。それは、ある意味で小さな復活、聖霊降臨の体験であり、その体験を踏み台にして救いの業を記念する賛美と感謝の祈り(エウカリスチア)を共同体と共に分かち合う喜びに満たされます。(カトリック教会のカテキズム 1345~1347)
 
 注:聖霊の満たし(The Baptism in the Holy Spirit)は、①洗礼や堅信の恵みを更新すること、②新しい派遣に際して神の特別の賜物が与えられる の二つの面があることは、カトリック教会の共通の認識です。

 さらに、安息日の典礼に関して、「キリスト教の礼拝」(J、Fホワイト著、越川弘英訳)には、ことばの典礼と感謝の典礼の共通の源泉を考察する資料があります。
 「みことばの礼拝の歴史という項目の中で、シナゴーグ礼拝の起源と目的について詳細に書かれています。バビロン捕囚期のバビロンで始まった礼拝形式で、民族の生き残りをかけたアイデンティティを想起するために発展した儀式です。神のみ業を想起する文書を残し、共同体で声を出して読むこと、その内容を深く思い巡らすこと、それを喜んで受け入れることが主な会堂で礼拝でした。神殿も祭司もいらない。一般信徒が導く形式で、10人の男性が集まれば会堂の礼拝は成り立った。そして、シナゴーグ(会堂)の礼拝の焦点は、神のみ業に置かれ、神のみ業の歴史(聖書)を読むことによってほめたたえただけでなく、この歴史で生み出された賛美(詩編)を歌い、その歴史を祝福される神に祈り、そしてその歴史を深く顧みること(説教)によって、それをほめたたえた。こうして礼拝は、契約についての共同の記憶を教えたり伝達したりする方法になった。イスラエルの存続は想起(アナムネーシス)を通して、客観的な「死せる過去」でなく、「生ける神」を思い起こすことで可能になった。現在の礼拝の中で過去の出来事は、現在化されたリアリティ-となり、神の力が体験されたからです。(要約p206~207)」

 このようなユダヤ教の礼拝形式が、ミサの一つの礼拝、二つの部分(ことばの典礼と感謝の典礼)の原点になったでしょう。会堂の典礼の中核にあった「神がご自分の民になさったことがらについての記憶」は、キリスト者にとって洗礼の恵みの源にある主キリストの救いの業の記憶(過越の神秘)を祝うことが賛美の礼拝の中心になりました。紙面が足りなくなりました。再び手紙が遅れたことをお詫び申し上げます。

 今回の共同祈願の期間は、悲しみの聖母の祝日(9月15日)から天皇誕生日(12月23日)までの百日間を祈ります。この連帯100日共同祈願は、日本の教会に聖霊が豊かに注がれるように新たな聖霊降臨を願うというものです。そのために、全国の刷新のメンバーがともに家族として同じ食卓に囲む交わりを保ち、日本の教会の刷新のためにとりなすこと、緊急の助けを必要とする兄弟姉妹のために連帯すること、そして、教会奉仕のために聖霊の賜物が与えられるように願います。皆さまの上に神の祝福を祈ります。 

アーメン・アレルヤ

聖霊による刷新関西委員会
委員長

畠 基幸 CP

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