マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 諸聖人の祭日

諸聖人の祭日おめでとうございます。

 名も知られぬ過去・現在・未来の聖人殉教者たちのためにも
 共に祈りましょう。

 わたしは、長年 毎日の朝夕の「教会の祈り」を歌唱してきたのですが、「声帯結節」のため、まだ声があるとはいえ、使うと声帯にできたタコが大きくなると驚かされたので、歌うことは控えています。いずれ手術すると決心したので、よい医者との出会いを待ちつつ、先日書いたように深刻に考える必要はありません。が、祈りは一人で沈黙のうちに祈れるのですが、共同体と共に祈るのがベストです。「歌は二倍祈る」といわれるように賛美の歌声は川のように流れ、心を声に合わせて日々共に生きている喜びを感謝して神の栄光をほめ歌いたいです。歌えぬのどとなっても・・・
 
 そんなとき、米国人信者さんから「時課の典礼」すなわち「教会の祈り」のウェブサイトを見てみませんかと誘いがありました。歌えなくても、ウェブサイトに毎日の「教会の祈り」を聴くことで、霊的な楽しみが増えました。「教会の祈り」は全体あるいは部分的に一人で唱える時も霊的な実りが得られるように工夫して編集されているのですが、唱えるよりは歌うことによってその意味が完全に表現されるのです。このウエブはすべて歌っていますのでその味わいを楽しむことができます。

「教会の祈り」の英語版のウェブサイトを掲載します。
  http://divineoffice.org/

 これはベストカトリックウェブサイトの賞をうけたすぐれたサイトです。I phone などでもアクセスできるので旅行には便利ですね。(アイフォン、スマートフォンはまだ持っていませんが・・・)

 わたしが26年も前にシカゴで唱えていた教会の祈りの英語に近いので懐かしいですね。平板な感じですが、訛りが少ない部分 発音しやすいのです。わたしの英語発音の基礎になった感じがします。

                                   

 「神々と男たち」

5月3日(火)メディアは一斉にオサマ・ビンラディン容疑者の米特殊部隊による殺害について報道していた。「戦争行為なのか、国家による暗殺なのか?」テロとの戦いは果てしなく続くと予想される。これは悪循環でしかなくこの悪の連鎖を断ち切る道はないのか? 手段・方法から見れば、国家による暗殺事件でしかないが、テロ撲滅戦争の目的からすれば、報復行為ではなく、戦争行為の遂行で、正義の回復行為として歓迎され、ニューヨークのグランドゼロでの勝利の叫び声が報道されていた。法治国家の行為としては、同盟国として受け入れがたいところです。

 この日、朝から映画館へ出かけたのは、60歳以上1000円の入場料の恩典を受けるためではなく、「神々と男たち」の評判を聞いて出不精のわたしも心が動かされました。映画館に行ったのは、「パッション」以来かもしれません。

 映画館の解説パンフレットによれば、
 1996年アルジェリアで起きた武装イスラム集団によるフランス人修道士誘拐・殺害事件を題材に、映画化された作品で、2010年度カンヌ国際映画祭でグランプリンを受賞、9月8日から四週連続ロングランの大ヒット、304万人を動員し、社会現象化した作品。サルコジ政権がイスラム文化排斥の動き(ブルカ禁止法)にたいするアルカイダ系テロ組織による報復宣言に揺れるフランスで、話題となった。

 テロと戦うためには、人間性を成長させる環境を育てなければならないと思うが、その前に、この映画が伝えるような非人間的な決断をした厳律シトー会の修道士たちの愛の行為に出会わなければならないのではないか?自分たちを殺そうとする者を、信条の違い、生活の基盤の違いにも関わらず同じ兄弟として愛する人が実際にいることに出会わなければ、テロリストはなくならないでしょう。修道院長だったクリスチャンの遺言が英語版から曽野綾子さんが訳しています。(2001年9月14日に週刊ポストに掲載された記事「昼寝の化け物」の中でこの事件を紹介しています。このパンフレットの最後のページに収録されてます。)
 

 オサマ・ビンラディン殺害の翌日にこの映画を見ることができたのは、摂理的で、とても印象深く、何か涙目になるが、同じ信仰を持つ励ましと誇りを感じました。国際的な紛争の解決には、クリスチャン神父の手紙が語るように、「意味を知らずに殺害する者の中にも神の顔を見て自分のいのちを差し出す決意がいる。何の価値も見出せないとしても、無名の人の死と同じように数えられ、誰にも関心を持たれないままになるとしても、わたしの罪の許しと同時に私を殺す者を赦したいという決意」私たちには、とてもできないように感じるが、映画に紹介されるシトー会の修道士たちの共同体の祈りの中で、修道士たちは一人ずつ共に祈りつつナイジェリアの紛争の最中にある村の一隅の修道院に留まる決意を表明するまでの期間、クリスマスから最後の晩餐の日まで、そのプロセスを肉薄して修道士たちの表情を描写するのがこの映画の魅力を高めている。共に祈ることのできる永遠の時を奏でる真理に導く。もう一人のキリストとして語りかけるように、院長クリスチャンは、ゴルゴタの丘でイエスと共に十字架にかけられて永遠の命を約束される盗賊たちに語りかける。

 わたしたちは、罪びとであっても、神のあわれみを必要としている人間として、最期の別れの時には、クリスチャンが言うように、恐れず、イエスと共に十字架にかけられ、天国の約束を自分のものにしよう。この痛みと苦しみがわたしを傷つけ殺す者のゆるしとなるように祈りたい。イエスが弟子を友と呼びかけた時、ユダもそこにいたことを思い出しました。すべての人の救いのためにイエスはいのちを与えられてのです。ここに平和への希望の道が綿々と続くでしょう。
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 聖金曜日

御受難の福音

聖なる過越の三日間、典礼において、主の過越の神秘を祝います。典礼と日々の生活が乖離するところには、典礼が儀式に終わる形骸化が始まると言われます。典礼はキリストの祭司職に共同体が参加する全キリストの祈りです。キリストは目に見えない神の秘跡であり、人となられた神の現存をあらわすしるしです。神は共におられる。イエスは御父の似姿としての秘跡なのです。わたしを見たものは父を見たのだと・・・わたしにとって聖なる金曜日、御受難の福音を読むこの日、このことの真実さが問われているように思いました。あの東日本大震災を前にして何を語れるのだろうかと。

祈り推進グループの通信ニュースの復活号に次のような巻頭言を書きました。

主の復活おめでとうございます。
典礼的には復活祭を迎えたのですが、現在も、大地震、大津波、原発炉心破損事故の影響は収束するどころか、じわじわと受けた傷が膿み、体中に毒が回り、痛みと苦しみがうずくような感じです。皆さまも被災者の気持ちに寄り添い、被災者のためにわたしに何ができるのか心を砕いておられることでしょう。
あの日、3月11日は、灰の水曜日から始まる四旬節の最初の金曜日でした。夕方のテレビのニュースを見るまでは、東北に地震が起こったと聞いていただけで、何事もなく普段通りの生活のリズムでした。しかし、目に飛び込んできたのは、町の家々をなぎ倒す大津波の恐ろしい生の映像でした。しばし映像を食い入るように見ていました。7時半、テレビのスイッチを切って十字架の道行のために聖堂に行くと、誰も来ていません。一人で十字架の道行を始めました。
この夜、十字架の道行は、司祭のわたしのなすべきことを教えてくれたのでした。わたしは、苦しみの意味を教える神学書を読みふけっても、四旬節以外には、実際十字架の道行をほとんどしなかったことを告白しなければなりません。先輩神父が十字架の祈りを信心として毎日していても、あまり意味を感じなかったのです。ところが、あの悲惨な災害の場面を唖然として傍観していたわたしを救ってくれたのは、たまたま四旬節の義務で、十字架の道行に赴くことができたからでした。あの晩、直接に苦しみ叫ぶ人々の姿を目にし、その人たちのためにイエスによりすがるように祈りました。一留ごとに、生の現実の恐ろしい現場が目に浮かびます。一瞬のうちに命を、家族を、財産を、隣人を、村を、根こそぎに剥ぎ取られた人々の無念を想い、残された家族の嘆きと喪失に同伴しました。十字架の道行は、その日から信心ではなく、リアリティのある苦しみの連帯となりました。あの日から、わたしの毎日の祈りとなりました。

典礼なしには現実を理解できないこともまた事実だなと思います。 
この現実の前にしての祈りを最近入手した「日本のいやしのための十字架の道行」を説教の時に振り返りました。
この十字架の道行の祈りは3月17日にMichele Vincent Fisher, (CSFN)さんによって作成されました。伝統的な信心の祈りが現実の苦難のコンテキストのなかでわたしたちの存在そのものを揺り動かします。PDFファイルを添付します。
十字架の道行
 見るだけで涙が出そうになり 説教には使えませんでした。ただ祈ることが被災者に連帯する最初の一歩になると思います。

被災地の様子をご覧になるには:

 二つの海の物語

こんな物語をウェブで見ました。(英語)a tale of two seas
 死海とガリラヤ湖です。同じヨルダン河の支流にありながら、その海は、一方は豊かな海の幸の宝庫であり、他方は生き物が全く存在しない文字通り<死海>となりました。その違いは、死海は低地で水の流れがそこで終わる行き止まりですが、ガリラヤ湖はヨルダン河の流れをそのまま下流へと流していく。一方は、受けたものをそのまま与え、他方は受けるだけで、水は蒸発してしまう。原子炉のような構造なのです。流れがなくなれば、熱が上がり、とんでもないことになってしまう。・・・
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 Lent 四旬節 (灰の水曜日)

四旬節の意味について
 フランシスコ会のYou Tube media 宣教番組と思います。
 WWW.American Catholic.org をごらんください。
マレーシアのカリスマ全国委員会がアップロードしています。 
 www.pmst-ccr.org



 グレグ神父の講話から理解できることは、第二バチカン公会議以前のカトリックの四旬節は、カトリック教会独特の償いの業の期間という捉え方が中心でしたが、公会議後の典礼刷新によって、四旬節のオリジナルな意味が明確になって、キリスト信者にとって、また新しく共同体に加わる洗礼志願者にとって”回心(悔い改め)”と”洗礼”意味を深める期間として人生を信仰の光によって見直し、祈りや断食、愛徳の業はキリストの生き方に従うキリスト者のしるしとあかしの機会となるということです。

教会の掟 その4 
 教会が定めた日(灰の水曜日、聖金曜日)に肉食を控え(小斎)、断食(大斎)を守ること。
注:人によって断食の程度は異なり、14歳以下の子供と60歳以上の高齢者は断食を免除され、体の健康を損なわない程度の断食ということなので、教会法には断食の内容までは規定されていないので、常識的に一日のうち 一回は通常の食事をしてもよいという指導があります。また過酷な勤務を遂行する場合もこの規定に当てはまりませんが、例外規定ばかりを追求していると、その悔い改めの精神が消える恐れがあるので、今日では、小斎(肉食をしない)のかわりに愛徳を強調することが望ましいと考えられ、教区によっては、愛徳の業や信心業を奨励するようになっています。(教会法1249~1253)

カテキズム要約版(Compendio)
301 悔い改めはキリスト者の生活の中でどのような形で表されますか?
 悔い改めは、多種多様な形で、特に断食、祈り、施しをもって表されます。悔い改めのこれらの形や他のものは、キリスト者の日常生活の中で、特に四旬節と悔い改めの日である金曜日に実践することができます。
 わたしの実践では、
 大斎  主な食事を節制(普通食一回、好物を控える、水のみ)
 小斎  肉を控える、愛徳の業をする。施し、信心業
 ミサの聖別のことば、
  「みな、これを取って食べなさい。
   これは、あなたがたのために渡される
   わたしのからだである」 
 強調した点は、<あなたのために> 行われた主の救いの業に応えることが、悔い改めの業であり、主の愛に応えることになります。テレビを見るのを控えたり(食事や娯楽の節制)、自分の自由時間を祈りにささげたり(信心業)、種々の償いを果たすこと(施しや犠牲)を行うことが四旬節の過ごし方ですし、司教団からだされたカリタスの小冊子も利用して、愛の献金を行いことなどです。

431 教会のおきてにはどのような目的がありますか?
 
 
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 2011年正月三ヶ日

今年の正月三ヶ日は以下のスケジュールで終わりました。猪名川町の元旦は雪を予想していましたが、まったく雪は降らず、穏やかな暖かい朝となりました。昼間は、快晴の冬らしい青空としずかな平和な時間が流れる毎日でした。しかし、エジプトでは、コプト教会でテロに巻き込まれて多数の死者が出たことを知り、教皇さまの平和のメッセージ、「信教の自由」についての考察が一層身近な緊急を要するものと感じました。テロの犠牲となり亡くなられた方々に永遠の安息をお与えください。聖霊 来てください!神の愛が注がれ、人類に留まりますように!

新年ミサ 
 元旦 神の母 「世界平和の日のメッセージ」

 日生中央 深夜ミサ  信徒3名
      11時ミサ  信徒50名

2日 主の公現 (大阪教区時報 池長大司教メッセージ)

 池田教会 11時ミサ  信徒140名

 3日 主のみ名 (互いに愛し合いなさい)
 
 ケアハウス 神の園  7時ミサ 信徒6名
 池田教会      11時ミサ 信徒40名

   ケアハウス1 ケアハウス2 ケアハウス4
 今年の正月も二日の夜からケアハウス神の園を訪問し、久しぶりにゆっくり風呂に入り父と一緒に食事をしてワインを酌み交わしました。翌朝は、七時からケアハウスの祈りの部屋で高田園長夫妻とミサがあると聞いて集まられた熱心な信者の皆さんと共に新年の感謝のミサをささげました。
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 おめでとう!

主の降誕 おめでとうございます!

 ことし一年の思い出を振り返り 皆さまに 感謝です。


Card クリスマスカード

日生中央教会のクリスマスイメージ
日生Xmas

 還暦を迎えました!

11月26日(金)ちょうどこの日は日生中央教会の金曜日の10時のミサに畠神父還暦祝いを兼ねて皆さんが集まって祝ってくださいました。これはその時のパーティのプレゼントの表紙、黄緑はわたしが色つけしたので変になりましたが、まだ若い若葉のしるしのつもりです。
Mybirthday

 コットンネ共同体を訪ねて

15日から17日まで二泊三日の短い滞在ながらコットンネ共同体の王神父、ブラザーシンを訪問し、施設の見学とその霊性の活動を体験してきました。
(コットンネ共同体への行き方:金浦空港からバスで東ソウル・バスセンターまで1時間半、バス・センターからコットンネへまで1時間50分です。東ソウルバス・センターではコットンネまで一日8便あり、直通です。)
 
入口にあるチェ爺さんの墓
ちぇさんの墓
王神父のインスピレーションとなったチエ爺さんは共同創立者として尊敬されている。
修道会本部聖堂本部聖堂 ここで毎日ミサがある。
 
 山里離れたコットンネ(花の村)というところは、総合福祉センターという趣があり、「ゆりかごから墓場まで」、新生児から高齢者まで、家族の崩壊、経済の破たん、知的障害や身体障害、認知症やエイズ、ハンセン氏病、結核などなどあらゆる形で隔離され見捨てられた人たちの最後に行くところとして、花村(コットンネ共同体)という場所が韓国にあります。ここは姥捨て山ではなく、神の国が目に見える愛の共同体が活動しているところです。まったく変な新興宗教の活動ではなく、正式に認可された修道会として成長し、福音宣教活動として愛の実践を宣べ伝えることです。韓国社会が、朝鮮戦争以降の冷戦、南北対立、などなど経済的政治的混乱から立ち直る中で、社会や家庭から落ちこぼれ路上に捨てられた人を引き取り、最後まで面倒を見るので、その使徒職の誠実な取り組みが多くの人の支持を受け、社会的に認知されているのです。韓国大統領も支援し、韓国の企業も寄付し、一般人も信徒も協力して百万人の支援者によって成り立っています。毎月一人一ドル献金の運動の成果でもあります。この共同体には5000人の人が毎日食事をしているのです。そのお金はすべての浄財によって賄われているという聞きました。年金を囲い込む貧困ビジネスではなく、まさにイエスが貧しい人を愛していることを身をもって示す活動です。無償でホームレスの人を引き取り回復するまで、あるいは死ぬまで面倒を見ているのです。
墓15000人が眠る墓 
(このコットンネで亡くなった人は火葬して灰にしてしまうのではなく、一人ひとり墓碑銘に名を刻み、土葬で埋葬して、復活の日まで安心して眠ることができる場を提供する。山一つを墓地のために購入している。)

新生児墓水子供養の墓もある。中絶した人たちの回心のシンボル

 日本でも多くの修道会が同じようにしたのに、どうして衰退しているのか?多くの小教区が貧しい人たちのために支援活動を続けている。脱宗教世俗社会の日本では、無縁死3万2千人、12年連続自殺者3万人の無縁社会の出現がマスコミに取り上げられて社会に衝撃を与えている。愛の実践を伴う信仰が何よりも求められる。愛に恵まれず、孤立した人たちの群れがあり、貧しい人ですらビジネスの対象としてしか世話を受けないような人々がいる。これはほんの象徴的なことですが、もっともっと悲惨な現実があります。コットンネは祈り、徹夜の祈りが月一度行われ、熱心に祈る人が集まる。”Love in Action" の標語で、互いに挨拶は、「愛しています」を言葉とジェスチャーで交わす。(ジェスチャーは、ハートの形を両腕で描いて頭におく)

 コットンネのような純粋な愛の実践を伴う信仰者が貧しい人々を世話する霊性が必要なのではないかと。わたしは、日本にコットンネの霊性を立ち上げてほしいと王神父に希望を語りました。本当に望むなら自分の部屋に貧しい人を引き取って一緒に住む覚悟がないとだめだと王神父の答えでした。それぐらいでなければ彼らは信じてくれないだろうと・・・。その覚悟があるのか?鋭い質問を投げかけられました。
王神父

 ソウル駅での活動:
 毎週火曜日にソウル駅でホームレスの人に簡単な食事を提供して、それから駅周辺を巡回して、体が弱って動けない人や寒空に我慢できなくなった人に声をかけ、コットンネに連れて行きます。アルコール中毒の人が多いので、いったんコットンネにいてもお酒が恋しくなって、またソウル駅へ戻ってくる人もいるということですが、数年間おつきあいしているうちに、段々変ってきて他人の世話をすることができるまでに回復し、社会復帰できる人もあり、それがコットネの目的でもあるのだとのこと。医療相談、家庭相談、就職活動支援などもしており、コットンネには介護福祉大学が併設され、病院には15名の医者が働き、シスター280名、司祭・ブラザー100名ほどいる巨大な修道会にまで発展しているのです。

ソウル駅
ホームレスのいるところに毎週火曜日訪問し、コットンネへの希望者を募る。黙想の家の売店スタジオ黙想の家の食堂(朝食)
左から黙想の家の売店、テレビスタジオ、黙想の家食堂ー(王神父とBrシン)

 訃報

マリア 堀江 和栄さんが去る11月11日に病死されました。池田教会で2008年3月23日の復活徹夜祭に洗礼を受けられ、イエスの救いに憧れ、それが叶えられた喜びの表情は忘れられません。入院中に訪問して聖体をお授けしたときには、目を閉じてしばらくの間、愛するイエスを迎えした喜びを満面の笑みで表され、イエスの名を何度も呼んで礼拝しておられました。この度は、入院の連絡もなく、最後の時を準備する間もなく天に召されましたが、愛するイエスの内に、永遠の愛の宴に与り、生前あんなに憧れ待ち望んでおられた永遠の命の喜びに満たされて憩っておられることは間違いないと思います。ご遺体は献体されたとのこと、皆さまのお祈りをお願い申し上げます。74歳のご生涯でした。堀江さん代母の田中邦子(右)さんとともに
今年の復活祭の在りし日の姿(2010年4月4日復活主日)
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