マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 池田・日生中央合同バザー 10月18日

“愛の輪を広げよう WITH YOU”
 聖マリア幼稚園と同時開催です。コンサートもあります。ぜひお出かけください。
 前晩   ミサ 夜 7時
 早朝   ミサ 朝 7時
 主日   ミサ   9時

 バサー開始   午前10時より 
 場所      カール記念館・幼稚園運動場、園舎

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9月号のからしだねPDFファイルです。からしだね9月号
 夏の行事、旅行記など盛りだくさんの内容です。


9月号巻頭言 ”朝の祈り”を共に
2009年9月19日 池田カトリック新聞443号 (2)
巻頭言
朝の祈りを共に
                    畠 基幸 神父


 皆さまもお気づきになったと思いますが、毎日曜日、「教会の祈り」の「朝の祈り」をミサの前に行うようになりました。8時45分から10分間ほどですが、「教会の祈り」の主日の詩篇唱和の個所をご一緒に会衆全体で歌うのです。その後、ミサ開始まで数分間沈黙のうちに心の準備をします。ほんのわずかなことなのですが、賛美の詩編を歌うことによって、聖堂全体が祈りに包まれ、会衆全体が主を迎える準備が整うのです。皆さまの感想はいかがでしょうか?

 これは、聖堂をおしゃべりの空間から祈りの空間へと変容させるための対策ではありません。わたしの突然の思いつきでもありません。私の「教会の祈り」との出会いは、1975年の秋からみことばの家に共住者として下宿するようになった時です。その時、國井神父さんが手ほどきをしてくださり、一緒に唱えていました。まだ歌うのは難しかったのです。詩篇を共同で唱えることの中に、すごい詩篇の祈りの力を感じ、霊感に打たれたものです。「心を声に合わせよ」。キリストの祈りを自分のものとするためには、自分の心をキリストの声に合わせなければならない。その声の中にキリストの霊が現存して、わたしたちの祈りがキリストの祈りとして御父へとささげられる。祈りはすべて、キリストの名によって、すなわち、「わたしたちの主イエス・キリストによって」ささげられるのですが、その「声」にキリストが現存するという恵みにわたしは喜び感動したのです。その時からでしょう。「教会の祈り」がわたしの祈りとなり、肌身離さず持ち歩くようになったのは…。こうして私は修道会に入ることにためらいを感じませんでした。
 
 叙階を受けてから、最初に赴任した奈良教会で「教会の祈り」のわたしの感動の普及に努めました。ごく少数でしたが一緒に平日に「朝の祈り」を唱えました。次に赴任した小倉教会では、何もできませんでした。1985年に3ヶ月ほど日生中央教会の主任代理を務めた時には、「教会の祈り」の本を5冊ほど購入し、「教会の祈り」を共に祈るように呼びかけました。その時は、まだ主日のミサではこの祈りを薦めることはしませんでした。一冊の値段が高い(5,000円+税、1973年版は頒布価格4,000円)ことが大きな障害でした。そして、年月がたち、再び日生中央教会を担当することになると、もはやこの「教会の祈り」は、まったく誰も唱えなくなり本だけが残っていました。そして、ようやく、この度は、池田と日生中央で主日のミサの前にするという方法をとりました。まだまだ馴染まないかもしれませんが、これも私の感動の恵みを伝え、第二バチカン公会議の典礼刷新の大きな実りの一つを味わう機会となればと思います。

 さて、私がこの「教会の祈り」にこだわるのは、私自身の個人的な体験からでもありますが、教会の集まりでも、評議会や種々の会議でも、共通の式次第と祈りがないので、どうしても司祭が短く祈り、信徒がそれにアーメンと答えるだけになってしまう、あるいはロザリオの祈りか主の祈りで一致するということで落ち着く。これは何とかならないのかと思い始めたからです。感謝の祭儀以外の共同体の祈りが貧弱化しているという印象を私は持っているのです。北摂地区の司祭・修道者の集いでも、祈りのリーダー養成についての話題がでました。信徒の奉仕職を推進するにはどうしても祈りによって日々霊性を高めなければならないとの認識で一致しました。さすれば、共同体の
祈りをどこから手をつければいいのか?

 すでにそれは、第二バチカン公会議後の典礼の刷新の中で、「聖務日課」の改訂が行われ、そのローマ規範版のなかの総則に共同体で祈る規範になることが希望として述べられているのです。すなわち、総則27には、信徒の団体が一緒に集まる場合や家族の聖所である家庭でも、「教会の祈り」のある部分を唱えて教会に堅く一致することが望ましいとあります。このような総則の背景には、公会議以前は、信徒の祈りと司祭・修道者の祈りが全く違い、位階性がそのまま祈りの種類の階層のように、信徒は公教会祈祷文を唱え、ロザリオの祈りや十字架の道行など信心業を、司祭・修道者はラテン語の聖務日課を唱え、聖書の黙想と観想の祈りに従事していたことが思い出されます。当時は、聖と俗の区別を明確にして、聖職者は聖なることに従事し、そして、信徒は俗事に専念して聖職者の祈りに頼るという住み分けがありました。
 
 しかし、公会議後、洗礼を受けた信者はすべてキリストの絶えず目覚めて祈るようにという命令に従わなければならないということが意識され、それをキリストの祭司職を行う教会共同体の典礼として祈ることが勧められるようになったのです。新しい聖務日課(教会の祈り)の目的は、「その日一日と人間活動の全体を聖化することにある」(総則11項)であり、この祈りは、「花婿に語りかける花嫁の声であり、また自らのからだ(教会)と一致して父にささげるキリストの祈り」であり、また「天上で永遠に歌われている賛美の歌に」加わる祈りなのです。すべてを聖化する義務を信徒も聖職者も共に担っているのです。

 なかなかこの理想を実現することは難しく、なんとかその味わいを皆さまにも味わっていただきたいと願うばかりですが、次のような規範版の総則を実現できればすばらしいと思います。
 
 21項「…いわば、世界中に立てられた見える教会を実現する小教区は、できるならば主要な時課(教会の祈り)を教会で共同で行う。」つまり「朝の祈り」と「晩の祈り」のことです。また、22項で「したがって、信者は『教会の祈り』のために呼ばれ、一つに集まって、心と声を合わせるとき、キリストの神秘を祝う教会をあらわす」。
そのために、23項では、「叙階を受けた者、あるいは特別に教会法上の務めを授けられた者の役目は共同体の祈りを組織し、指導することである。彼らは『自分の世話にゆだねられているすべての人が、心をあわせて祈るように働かねばならない』。したがって特に主日、祝日には信者が『教会の祈り』の主な部分を共同で行うよう、彼らを招い
て必要な教育をほどこすように努める。彼らが『教会の祈り』への参加から真実な祈りを学びとるように教え、そのためには信者に適切な教育によって詩篇をキリスト教的に理解するよう徐々に『教会の祈り』に親しみ味わうように導く。」と、私ども司祭の義務がはっきりと書かれてあり、信徒とともに、主日に「教会の祈り」を歌うことによって、ミサをよく準備することができると以下の総則に明記されています。総則12項「主の晩餐の神秘は、キリスト教共同体の全生活の中心であり頂点であるが、『教会の祈り』は、感謝の祭儀の含まれている賛美と感謝、救いの諸神秘の記念、懇願、天の栄光の先触れなどを一日のいろいろな時間に繰り広げていく。…したがって、『教会の祈り』は、感謝の祭儀の効果を豊かに受けるために必要な心構え、例えば信仰、希望、愛、熱心、犠牲の精神などを人々のうちに呼び起こし養うことによって、感謝の祭儀のすぐれた準備となる。」

 皆さま、このような教会共同体に一歩でも近づきたいと思いませんか?

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