マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 第六日 メシアとその霊の期待

第六日  メシヤとその霊の期待

1.初めの賛歌 スピリットソング(「主に賛美」p99)

2.導入 旧約において、人々は約束されたメシヤを期待して待っていましたが、神の言葉を無視していました。これは人びとを挫折、失望、捕囚へと導きました。シメオンやアンナのようなわずかの人びとだけが、イスラエルの慰め(ルカ2:25)、エルサレムの救い(ルカ2:38)を待ち望んでいました。イエスの公生活の間、弟子たちでさえ、自分たちの望みを実現し、自由をもたらしてくれる政治的指導者を待ち望んでいました。    

 このテクノロジーと物質的進歩の時代に、私たちは何を待望しているでしょうか。何に私たちは希望をおいているでしょうか。私たちの経験によれば、暴力と不正は依然として盛んです。これらの問題を除くために、私たちは誰に信頼すればよいのでしょうか。彼らはその実現に導いてくれません。私たちと信じない人々の間にどんな違いがあるというのか、問うて見なくてよいでしょうか。私たちは神と御言葉に対する信仰と信頼の欠如に対して、今日、赦しを願うことから始めましょう。

3.悔い改め (第一日と同じ)
4.謙遜の祈り(第一日と同じ)
5.聖霊への祈り(第一日と同じ)

6.ことばの祭儀 
  聖書箇所 イザヤ11:1~2(朗読)

7.説話のポイント
-これらの預言の言葉や他の預言によって、神は約束の言葉によって人びとの心に語りかけられました。聖ペトロは五旬祭の日の朝、その成就を宣言しました。(使徒2:17~21)

 -これらの約束は何を意味するのでしょうか。それは世の終わりに、主の霊が民の心に新しい掟を書き記して、民の心を新たにすると宣言することです。神は散り散りに分裂していた人びとを集め、和解させられます。神は最初の創造を変えて、平安の内に御自分の民とそこに住まわれます。

 -二種の人びとがイエスのことばを聞きに来ました。富と権力があり、影響ある地位にあって安泰な人々は、イエスのことばを聞いてもほとんど期待もせず、みことばを受け入れもしない人々です。貧しく、学問もなく、権力もなく、不安定な人々は大勢来てイエスのことばを聞き、信じました。弟子たちは後者に属していました。  

 -私たちはどちらのグループに属するでしょうか。私たちは今の地位に満足し、救い主を必要とすることが分からないほど社会的地位と教育に守られて、満足しているのでしょうか。それとも自分個人の問題を解決することも出来ないことを自覚し、周りの社会の不正に心を痛め、イエスのもとに行き、その助けを求める必要を分かっているでしょうか。私たちの祈りの生活がこれを示します。
 -私たちは、聖霊を私たちの上に、周りの世界の上に送ってくださるように、救い主に祈っているでしょうか。それともずい分と祈りを怠っているでしょうか。
 イエスは貧しい人々、苦しむ人々、無力な人々に対する心遣いから、ご自分の上に来られた聖霊の効果をお示しになりました。その同じ聖霊が洗礼の時に私たちにも臨んでくださったのです。私たちはイエスと同じように聖霊に導いていただいていますか。今日の世の中で、不正に苦しんでいる大勢の人々のことを、心にかけているでしょうか。それに対して私たちは何をしているでしょうか。家族の中に私たちの助けを必要とする人がいますか。その人々を助けるために、イエスのように、私たちも聖霊の促しに従い、助けの手を差し伸べるでしょうか。

 これが私たちの使命です。私たちに対する神の愛に与かりながら、他の人々と愛と思いやりを分かち合うことによって、この証人となるよう、呼ばれているのです。

8.賛歌 告げよ 地の果てまで(「主に賛美」p29)
9.祈りましょう(第一日と同じ)
10.終わりの賛歌 子羊イエスよ (「主に賛美」p162)
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