マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 復活第二主日 神のいつくしみの主日

4月19日 池田~日生中央教会

 初聖体を終わった子供たちが侍者の一員に加えられる喜びの日

乳をもとめるみどりごのように、
    あなたがたはいのちの糧を求め、
          救いを得よ。 アレルヤ(1ペトロ2・2)

第一朗読  使徒たちの宣教 (使徒言行録 4章32-35節 )

答  唱  詩篇118 

第二朗読  使徒ヨハネの手紙 (1ヨハネ 5章1~6節)

福  音  ヨハネによる福音 ( ヨハネ20章19~31)

  「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊をうけなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

・・・「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」「私の主、わたしの神よ」・・・

 信仰入門講座 (毎週木曜日 午後12時半)

聖書百週間の学びのあと、 時間がある方にお薦めです。
 聖書百週間  10時   ~   12時 担当 デニス神父
 信仰入門講座 12時15分~   1時半 担当 畠  神父

 この他 水曜日に幼稚園の保護者対象にアルファコースを始めます。
 お問い合わせは、聖マリア幼稚園へ・・・
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 納谷 靖之介様 逝去

 ヨハネパウロ 納谷 靖之介様は昨日(4月15日午後5時10分)回生病院にて永遠の眠りにつかれました。1916年8月15日生まれ、92歳でした。

 通夜  16日 午後7時   池田教会 司式 デニス神父
 葬儀  17日 午前11時半 池田教会 司式 デニス神父


通夜:
 美しい清らかなお姿を見ると、安らかなお心で天国へと旅立たれた様子がうかがえました。参加者は40名ほどでしめやかに行われました。親しい人々による親身なお別れになりました

 説教では、デニス神父が故人の略歴を紹介し、洗礼(1989年3月20日)は、奥様の亡くなられた年であったこと、誕生は8月15日、このたびは、亡くなるときには、長年の友デニス神父が病院に立ち寄り、3時間前に病者の秘跡を授けることができたこと、その後無意識のうちにも何か喜びの表情が見えたこと、それで奥様がお迎えになったことではないかと・・・。 亡くなられた奥様は、20年前、淀川キリスト教病院で最後までストラの刺繍に時間を割き完成された話、そのため、そのストラはデニス神父の一番愛着のあるストラで、祝祭日のミサでは必ずつけることにしていることなどを話されたのち、
アイルランドの詩を紹介して 故人の旅たちを祈りました。

 アイルランドの詩:魂の友 = ANAM CARA

 For the final words of farewell, I used John O'Donohue's Blessing for the dead, "from Anam Cara, the Gaelic for "Soul friend",・・・(I explained that Anna was now a "soul friend" to her only child in a way nobody had forseen or experienced. May there be a beautiful welcome for you in the home you are going to. You are going back to the home that you never left.)

 朗読箇所で、イエス様が父の場所へ行って部屋を用意しにいくと約束されたように、これから納谷さんが行くところは、知らないところへ行くのではなく、かつて慣れ親しんだ愛する人が待つ家に戻ることになります。

 
 

A Blessing for Death
 
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 復活祭 初聖体 (池田・日生中央)

復活の日の朝は、初聖体の子供たちが主役です。(写真石戸氏提供)

 池田教会・・・

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喜びの表情
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 日生中央教会・・・

奉納の行列 (初聖体の子供たち)
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初聖体 (パンとブドウ酒の両形色による聖体拝領)
拝領1拝領3拝領2
拝領4

復活徹夜祭で洗礼を受けられた方の紹介と
初聖体の家族一緒の記念写真と祝福

紹介1祝福

復活の卵を探しましょう。どこにあなたの卵はおられるのでしょう。
探す
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 復活主日 4月12日

聖なる過越の三日間の終わりは主の復活の日の夕べまでです。今日は春の明るい日差しのもとに、教会では祝祭の雰囲気に包まれることでしょう。
第一朗読 使徒言行録 10章34a+37~43節

 ナザレのイエスのことです・・・
神はこの方を聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。

第二朗読 コロサイ3章1節~4節

 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのです。キリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。


福 音  ヨハネ20章 1節~9節

 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。・・・

 
 
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 共同祈願 500日間 完遂

4月10日 聖金曜日 
 今年の最初の100日共同祈願は、1月1日から始めましたので、4月10日が100日目です。100日のミサとしては、昨日の聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサが100回目のミサでした。昨年は、ローマの本部ヨハネ・パウロ大聖堂のわき祭壇にある十字架の聖パウロの遺骨の前で叙階25周年の記念日を祝うことができたのでした。そして、今年は、今回で100日間を5回重ねての500日目も皆様と共に御受難の記念の聖金曜日に共同祈願を成し遂げることができたことは大きな感謝と恵みになりました。

 聖木曜日の毎日の黙想のブログにベネディクト16世教皇の「典礼の精神」(濱田了訳、サンパウロ)に書かれていた典礼の積極的参加に関する考えを引用したのですが、典礼における積極的参加は、奉献文にあり、本来の典礼行為はオラツィオ(祈り)にあり、主のみが行える一人称の神の業は、叙階を受けた者も、信徒も同じ主の祈りに参加することには変わらないと指摘しているところがありますが、「キリストの本当の体になるように願わなければならない。そしてそれこそ願いこまなければならない」とベネディクト16世教皇が述べておられることをこのような形で、みなさまの日常の犠牲をミサの奉献においてささげることができたことは望外の喜びです。 

 その結果でしょうか? 何らかの効果があったと報告されています。あるシスターは永遠の喜びへと旅立ち、ある方は高齢で手術して奇跡的に帰還、ある方はホスピス病棟で死の病から解放され、ある方からは癌が消滅したとの知らせをうけました。亡くなっていった方も、落ち着いて家族との別れを告げることができたし、その葬儀での安らかな様子に、その後の家族の方や身内の方に信仰の恵みが分かち与えられたのです。祈りは無駄なようで一番大きな良い結果を生むことがわかります。なぜなら復活された主イエスの体に結ばれるからです。

 とりわけわたしには25年の節目の年に、お世話になった方々のことを思い起こし祈り続けました。わたしは、思いやりや気遣いが大変下手ですし、まったくそういう他者を愛する訓練にかけていたと思います。実際、手紙一つ返事ができていない。企業に入っていたら、たいへん苦労したに違いありません。気配りがまずできないからです。実際、この気配りと隣人愛の行い、いわばキリストの無制約の愛は似通っているのです。ですから、司祭になったことは、本来気配りの達人でなければならないのですが、そうではないのが不幸でした。ただ言葉だけ仕えられるものではなく仕えるものになりなさいと偉そうなことを言っていただけでした。その意味で、わたしを支えてくださった方々に感謝を述べたいと長年の忘れていた人々を思い起こそうとした一年でしたが、あっというまに過ぎてしまった一年でした。肝心の足もとの司牧も中途半端なもので時間だけが過ぎていった一年でした。昨年末に年賀状も書けないで、今度の復活祭に送ろうと決心したのでしたが、この復活祭が来てしまいました。あああああとため息がでて、何を決心したのか? あなたに何をしたのか? とがめのことばだけがわたしにのしかかります。

 すべては 神の業に参加していく 主のなさることだ・・・
 わたしは所詮 上に書いたように自分では何もできない輩です。

 これからも 周りは見ないで 60歳まであと500日を共同祈願ミサにささげましょう。これが私にとっては皆様のための一番堅実で確実な行為なのです。どうぞ またはがきでお申し込みください。まったく費用は要りません。あなたさまの願いを書き込み、無心に毎日のミサにあなたのお心をあわせるだけで、一日がキリストの奉献に結ばれます。人の救いを目撃できることはなんという幸せでしょう。次回は4月26日(日)から今年の二回目の百日共同祈願を始めたいと準備しています。 (開始日を4月23日に訂正します。4月23日の金曜日 御受難会の移動記念日 「栄光の傷の記念日」だからです。復活されたイエスの脇腹には受難の傷跡があるというのは、御子がわたしたちと同じ人間となられたことの象徴です。そしてわたしたちの復活をも先取りしているのです。アレルヤ)

 よい復活祭をお迎えください。
 感謝のうちに・・・ 叙階26周年を迎えた 畠神父より
 
昨年のジャカルタでのISAOアジア大会、インドネシア駐在教皇大使司式による共同祈願ミサ・・・写真はミサ後教皇大使を囲んでの記念撮影が背景です。

ジャカルタ01

天皇ご夫妻はご結婚50周年の金祝でした。美智子皇后には麦の穂のブローチが襟にありましたね・・・ 一粒の麦が死なないならば一粒のまま残り、死ねば多くの実を結ぶと ・・・信仰の隠し味ですね。
エアsテr2009シカゴ在住のアルゼンチン人の御受難会司祭ギブソン神父のメールに添付してありました。

 聖金曜日

Lk 23:46
「父よ わたしの霊を御手にゆだねます。」
Father, into your hands I commend my spirit.

イザヤ 52章13節~53章12節 (第四しもべの歌)

 苦しむしもべの歌のもっとも重要な箇所、

詩篇 31、 2節、6節、12~13節、15~16節、17節、25節
 信頼をもって、神のみ顔を求めて、御父の御手に自らをゆだねる。
 「父よ、ゆだねます。 わたしの すべて
    父よ、ゆだねます。 あなたのみ手に」 (テゼ)


ヘブライ書 4章14節~16節、5章7節~9節
 イエスだけが、人と神との和解のいけにえとなることができる。罪の完全な贖いの汚れないいけにえとして大祭司キリストは至聖所に入られた。

ヨハネの福音 18章1節~19節、42節
 契約のいけにえとして完全に自らを渡された。
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 聖木曜日  主の晩さんの夕べのミサ

Psalm 116:12
主はわたしに報いてくださった。どのように答えようか?
How shall I make a return to the Lord for all the good he has done for me?

集会祈願
 いつくしみ深い父よ、あなたのひとり子は死に向かわれる夜、食事をともにして、新しいいけにえ、愛のうたげを教会におゆだねになりました。この晩さんの偉大な神秘にあずかるわたしたちが、キリストの愛をうけ、生きる喜びに満たされますように。・・・・

*新しいいけにえのことを「愛のうたげ」と教会の信仰として祈っています。「愛のうたげ」はそれ以来教会の命の源となりました。御子の奉献にあずかること・・・すごいと思います。

 「participatio acuosa 積極的参加」-第二バチカン公会議以降の典礼の指導原理として「神の業 Opus Dei」にすべての者が積極的に参加するように方向づけられてきました。教皇さまの教理聖省時代に出版された本「典礼の精神」(現代カトリック思想叢書21 サンパウロ)では、どこに「積極的参加」の本質があるのかと問うて、丁寧にp185~190にかけて述べておられます。教皇の不満は、この語を外形的な意味に間違われているという点です。なぜならば、「参加」は、すべての者が参加するはずの、ある主要な行為があることを示すと言われます。共同体の成員がすべてあずかるべき中心的な「アクツィオ actio 行為 」とそもそも一体何かを理解しなければならないというのです。・・・教皇はこれは自明のことだといわれ、皆さまにはあっと驚くことだと秘密を明かされます。そのあたりを引用して皆様の黙想の材料としましょう。

{「典礼」の「アクツィオ」とは「奉献文」を意味するのだと・・・真の典礼動作、本当の典礼行為は 「オラツィオ(祈り)」でありエウカリスチアの中核を形成する。「オラツィオ」は元来「祈願」の意味ではなく、盛式で公式な発言、つまり神に向けられた発言であり、それは神ご自身から与えられ、可能となっている。しかもエウカリスチアの奉献文でありカノンであるものは、実際に発言以上のもので、「神の行為」であり、オラティオでは司祭は主における一人称、「わたし」で語るからです。「これは、わたしのからだである」「これはわたしの血である」、司祭はもはや自分自身で語るのではなく、それが他の方の声となることを知っています。人間の発言を通して遂行される、この神の業は、すべての創造物が待望している、真の「行為」なのです。・・わたしたちすべてが参加すべき典礼の本来の「行為」とは、神の業自体なのです。神ご自身が行われ、本質的な部分をすることこそ、キリスト教典礼の新しさであり特有のことなのです。}

「しかし、どのようにしてわたしたちはこの行為に参加できるのでしょうか?」と教皇は問いかけて、「神ご自身が人間となったこと、つまり神が肉体をとったことと、常に新たにキリストのからだをとおして肉体的に生きるわたしたちの方に向かってくることによって、それがまさに可能なのです。」と受肉の神秘への言及であり、わたしたちの側の協力、決断を促します。秘跡で使われる「オプス オペランティス(人効的)」なものでしょう。教皇のことばでは「キリストの本当の体となるように願わなければならないのです。それこそが重要です。そして、それこそ願いこまなければならないのです。この願い自体が一つの道であり、実存が受肉へ、そして復活へと入っていく途上にあるわたしたちの進路です。この本来的な「行為」において、祈りによってこれへの参加に向かうことにおいては、司祭と信徒の間に何らの相違もありません。」これは一人称で語る叙階の秘跡の力が、神の業、主ご自身の行うことですが、主だけが行えることに参加するのはすべての者にとって同じことです。」

そして 教皇はこのように言われるのです。

「Ⅰコリント6章17節のことばが、わたしたちすべてに当てはまると・・・『主と結ばれる者は、主と一つの霊となります』。重要なのは、最終的にキリストの「アクツィオ」とわたしたとの間の相違が取り除かれることです。そこには「ただ一つのアクツィオ」だけがあり、それはキリストのものであり、同時にわたしたちのものでもあるのです。わたしたちのものと言えるのは、わたしたちがキリストと共に「一つの体、一つの霊」となったからです。エウカリスチア典礼の卓越性はそこにこそあります。神ご自身が行い、わたしたちはこの神の業に引き入れられるのです。その他のことは、これに比して二次的なものです。」

ここからの教皇の結論は 非常に示唆に富むものです。
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 お花見 桜満開・・・

日生中央教会の火曜日の聖書分かち合いグループでお花見会

 教会から車で5分くらいの住宅街に山の斜面を利用して
 桜の名所が誕生・・・
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お弁当を広げて おいしい御馳走に春の喜びが訪れる。
お弁当復活徹夜祭に洗礼を受けられる水野さん、洗礼名は日生中央教会と同じ保護の聖人、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父です。ウォード神父が名付け親です。

花見
これでここの桜を見るのは三年目ですね。桜の下でお弁当を食べるのは今年は初めて・・・ いつもではありません。

 受難の主日 (枝の主日)

「お前がユダヤ人の王なのか」 (マルコ15:2)

主のエルサレム入場の記念

 全能永遠の神よ この枝を祝福してください。主キリストに喜び従うわたしたちが、ともに永遠の都エルサレムに入ることができますように。▲ アーメン

 (枝は奄美の大熊教会からの寄贈です。毎年蘇鉄の葉をこの日のために丁寧に準備して送ってくださいます。今年は300本のソテツの葉が贈られて、感謝のうちに、池田教会(150本)日生中央教会(100本)、御受難会女子と男子(50本)に分けてこの日の典礼に備えることができました。大熊教会の皆様、ありがとうございました。畠 )

 マルコによる福音 (11章1~11節)
「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

わたしたちも救い主イエスをたたえながら、主の過越の記念を行うために行きましょう。・・・ (行列で盛儀の入堂)

集会祈願 ・・・

ことばの典礼
第一朗読  イザヤの預言  50章4~7節
答  唱  詩篇22  (典 176 )
第二朗読  使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2章6~11節
 
詠  唱  典317 キリストは人間の姿で・・・

福  音  マルコによる主イエス・キリストの受難
   ✚ 司式司祭
   C 語り手
   S 群衆
   A 他の登場人物

説 教 
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