マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 復活主日 4月12日

聖なる過越の三日間の終わりは主の復活の日の夕べまでです。今日は春の明るい日差しのもとに、教会では祝祭の雰囲気に包まれることでしょう。
第一朗読 使徒言行録 10章34a+37~43節

 ナザレのイエスのことです・・・
神はこの方を聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。

第二朗読 コロサイ3章1節~4節

 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのです。キリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。


福 音  ヨハネ20章 1節~9節

 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。・・・

 
 
説教ノート: 
 雨宮師の解説では、新共同訳で、イエスの遺体を包んでいた亜麻布が単に「置いてあった」と訳されているのに対して、フランシスコ訳や岩波訳では「平らになって」としている。そこで 「日本流に言うと、もぬけの殻になっていたのです。」と指摘されました。先週の福音の分かち合い「聖書深読」のグループでは、意外だと話題になりました。スーと蒸発したなんて一度も考えたことがなかったって。それで後から入ってきて「見て」「信じた」、つまり不思議な有様をみて 信じたという説明です。

 福音書は具体的でかなり物質的な扱いを経てからでないと真実でないと考える世界に生きているのです。ペチャンコになっていた。だから信じたというのです。復活の表現はいろいろですね・・・目に見えない光だから・・・

 昨晩のミサでは 光の祭儀から始まり、新約の光はキリストで、まことの光なのです。これは、創造物語の最初の創造のことばと対応しています。 「光 あれ」こうして光があった。神は光を見てよしとされた。啓示の光であり、万物はキリストにおいて、キリストに向けて造られたとコロサイ書に言われています。アルファでありオメガであると・・・

 これは信仰の光なのです。復活の光のもとに見える光です。確かに復活と聞くと、理解できない何かオカルト教団と思う者も少なくない。実際、聖パウロもアテナイのアレオパゴスでギリシャ人を相手に復活を証言したところ、パウロを嘲笑いながら去りました。(使徒17章)ところが、そこに二人の人がパウロに近づきパウロの弟子となり、イエスの弟子になった人がいるのです。そのうちのひとりは、アレオパゴスの議員ディオニシオです。もう一人はダマリスという婦人です。そして、このディオニシスはヨーロッパの西欧思想史の中で何度も言及される人名となりました。

 この名前が出てきて唐突なのですが、彼は象徴神学の元祖ともいわれる、偽ディオニシス・アレオパギタです。ボナベンツーラ、ニコラス・クザーヌス、アウグスチヌス、トマス、ロネガン、それに、エディット・シュタインです。観想的な分野にのめりこんだ人たちの系譜かもしれませんね。。。

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