マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 信仰入門講座 (毎週木曜日 午後12時半)

聖書百週間の学びのあと、 時間がある方にお薦めです。
 聖書百週間  10時   ~   12時 担当 デニス神父
 信仰入門講座 12時15分~   1時半 担当 畠  神父

 この他 水曜日に幼稚園の保護者対象にアルファコースを始めます。
 お問い合わせは、聖マリア幼稚園へ・・・

 第一回目 神の認識を意識した世界 (以下は要旨のみ)

  1) 使徒言行録 17章 16節~33節

  復活の話を聞くと 知識人たちはパウロをあざ笑ったり、別の機会にと言って立ち去ってしまった。しかし、二人の名前がパウロに従って信仰に入った人がいたことが記されている。復活信仰は大きなチャレンジです。キリスト教徒にとって復活の信仰がないならば、信じてきたことは無意味になります。ここに人間にとって啓示されなければ見えないものがあるのです。神を認識することです。

  2) 復活証言 -イエス像

  パウロのイエスの復活証言と使徒たちの証言とは、内容がかなりことなる。パウロにとっては、月足らずのわたしにも現れたと述べているように、ダマスコの道の途上での出会いであり、それは光の体験であり、実際の視覚的な体験ではないが復活した主の声を聞いたのである。使徒たちの証言では、実際に一緒に食事をしたり、魚を食べたり、パンを食べたりして、幽霊ではない、幻ではない、生前に預言されたとおり復活は現実のものとなり、同じ体を持っていることが強調されている。しかし昇天ののち、同じ主の晩餐での記憶を語り合ううちに、復活された主の現存が現在化され、復活された現実は永遠に変わらぬものとして信じる者の心に実在する。教会ではそれを秘義(ミステリィオン)として典礼で祝うことにより伝承してきたのである。
 歴史のイエスと信仰のイエスというとらえ方があるが、この二つのとらえ方が分裂していることを憂慮して、教皇ベネディクト16世は、現在の最高の歴史研究と聖書学をもとにして、教皇が持っている信仰のイエス像「ナザレのイエス」(原著2006年発刊、日本語訳里野泰昭、春秋社 3000円 2008年12月25日発行 )を書いた。

 (3)福音書  四つのイエス像
 福音書は、それぞれの共同体が信じたイエス像を描いており、四福音にそれぞれニュアンスに違いがあるが、違うが故に一つに偏った見方を強要しないで、全体的に見ることができる。福音書の成立年代もその書かれた共同体もまた違うので、歴史的なイエスの再構築は困難ではあるが、しかしイエスの存在が現実の歴史に根差していないということではない。むしろ教会はずっとキリスト信仰が十字架の死という歴史に根差し、しかも神が人となった受肉の神秘を啓示として神学してきたのである。現教皇は、「イエスは、現実に肉体をとって現われたのだ」言いたいと述べています。イエスを「父」との関係で理解する立場です。

 (4)正典となった聖書とならなかった文書
 福音書は、他にもトマスの福音やユダの福音など現代にエキセントリックでセンセーショナルな扱いで話題になったことがありました。これらが正典とならなかった理由は、どこにあるのでしょうか?グノーシス(知識の覚醒者)のような影響を避け、歴史に根ざさない神話化を避けたのです。目に見えない神が目に見える人となった。これを消化するのにずいぶんと教会は時間をかけました。「神の母」(エフェソの公会議431年)の問題もそうでしょう。古代以来の代表的信条も「おとめマリアから生まれ」と処女懐胎を信じてきました。



 (5)再びディオニシオスに戻って・・・

 アレオパゴズの出来事は、教会の歴史にとって信仰の目を深める一つの代名詞のようなもので、ディオニシオスは6世紀に偽ディオニシオスの名前で復活し、啓示神学についての研究と人間の認識の研究に大きな潮流をもたらした。20世紀の聖女エディト・シュタインは、聖トマスの思想の中に、(1)アリストテレスとプラトンのギリシャ哲学、(2)聖アウグスチヌスの思想、(3)偽ディオニシオスの影響を挙げています。。そして彼女は哲学者の道からカルメル会への道を進み、「久遠の哲学」として神秘神学を志し、偽ディオニシスの問題意識を現象学の立場から分析して真理に到達しました。

  ・・・「神を語ることは、神を賛美すること」教皇ベネディクト16世の「教父」説教集に出てくる偽ディオニシスの解説です。昨年来、聖霊論的キリスト論の先駆けとなったミューレンに魅力を感じていますが、教皇はこのミューレンを高く評価しています。そのミューレンは、異言の祈りと賛美の祈りを上手に結びつけて解説しています。だからどこか教皇が褒めるのは聖霊に満たされた神学なのです。信仰をもたらす神学なのです。実際「ナザレのイエス」で、教皇が「モーセのような預言者の再来について」預言者の役割について書いていることは、「顔と顔を合わせて友のように語り合う」預言者は神の子イエス以外にはないからです。啓示は神の子イエスにおいて語られている。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1章18節)教皇は、預言者と予知能力や幻視能力のあることではなく、神のことばを識別する聖霊に満ちた人であり、信仰の学者なのです。

 私が感じる「この偽ディオニシオスの系譜こそ、神秘神学や秘義神学の源泉となっている」。このパウロの年の恵みなのでしょう、急にわたしの意識に浮上してきてなかなかこのことが頭から離れないのです。たとえば、15世紀の枢機卿であり、神秘家、哲学者であるニコラス・クザーヌスは、偽ディオニシスの文献を集めて、神認識の問題を深め、祈りの生活を奨励し観想修道会を創立したほどです。

 

これらはわたしの直観で、これを読まれた読者は、これらをそのまま真に受けずに独自に研究されることを望みます。 わたしもこれは寝不足の中で思いついただけの夢の構想なのです。 これから信仰入門講座で脱線しつつ扱うことになるでしょう。

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