造られたもので無駄になるものはない。
(日本語訳はこちらをご覧ください。小熊晴代さんのブログです。祈りの輪が広がるのはうれしいことです。ありがたい協力です。)
http://stjohn0105.exblog.jp/11059971/
An elderly Chinese woman had two large pots, each hung on the ends of a pole which she carried across her neck.
One of the pots had a crack in it while the other pot was perfect and always delivered a full portion of water.
At the end of the long walks from the stream to the house, the cracked pot arrived only half full.
For a full two years this went on daily, with the woman bringing home only one and a half pots of water.
Of course, the perfect pot was proud of its accomplishments.
But the poor cracked pot was ashamed of its own imperfection, and miserable that it could only do half of what it had been made to do.
After two years of what it perceived to be bitter failure, it spoke to the woman one day by the stream.
''I am ashamed of myself, because this crack in my side causes water to leak out all the way back to your house.''
The old woman smiled, ''Did you notice that there are flowers on your side of the path, but not on the other pot's side?''
''That's because I have always known about your flaw, so I planted flower seeds on your side of the path, and every day while we walk back, you water them.''
''For two years I have been able to pick these beautiful flowers to decorate the table.''
''Without you being just the way you are, there would not be this beauty to grace the house.''
Each of us has our own unique flaw. But it's the cracks and flaws we each have that make our lives together so very interesting and rewarding. You've just got to take each person for what they are and look for the good in them.
わたしたちも一生懸命にやっていて時に立ちどまって周りを見ると自分は何の役に立っているのかわからないことがあります。このお話の結論は他者をありのままにその善さを探して見るよにということですが、イエス様はそうしてくださっている方だと思います。イエスのまなざしによってわたしは力づけられ、わたしは一歩踏み出すことができるのです。無駄にはならないから・・・そう思えば、自分では気づかないけれども・・・あれこれして失敗しても、きっとうまく使ってくださっているのです。それに気づくと無様な自分でも何とかしてくださるのだと・・・それがわかると喜びが湧きあがります。
「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、
その人は、わたしを愛する者である。
わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛し、私自身をその人に見せる。」
(ヨハネ14章21節)
わたしの使い道を上手に教えてください!
聖霊、来て、イエスの霊で満たしてください。
聖アンドレ福音宣教研修会<体験 1 >

プラド・フロレス先生
これは、キリストを知らない人や信仰から離脱した信者を導くための福音宣教メソッド( たとえば アルファコース )とは異なり、その前提となる、イエスとの深い出会いを経験し、その愛と救いの力と恵みの素晴らしさを伝えたいと願う宣教者をつくる養成機関です。
このたび5月の連休を利用して宝塚黙想の家で5月1日から3日(新しい命)と5月4日から6日(エマオの道ー神のことば)の二つの入門プログラムが行われました。
今回、聖アンドレア福音宣教学校を日本に招くことができたのは、ペンケレシ神父(パリ外国宣教会所属)がカナダでこのプログラムの第一研修(新しい命)と第二研修(エマオへの道)を体験したのが始まりです。このプログラムこそ日本の教会の中にみことばに基づく信仰を根づかせることができるのではないか、熱意に燃え立たつ宣教者を養成できるではいかとの思いが、この福音宣教研修会を日本に招き福音宣教の心を養わなければならないという使命感となって実現したものです。
神父様は、日本の宣教に生涯をささげ、日本の教会に大きな貢献をされました。その働きは、小教区での司牧活動にとどまらず、JOCや聖霊による刷新、細胞グループ、高間書店による書籍の発行など数々の運動を指導し、宣教の熱意に導かれて多くの働き、多くの信者を導いてこられました。現在85歳、今も現役宣教師、有能多感、故に常に最新の技術と情報を入手し、宣教の道具として日本に紹介する宣教師魂に燃える。このほど、これまでに出会った活動や経験、そして宣教経験をはるかに超える研修会に出会ったと確信されて今回の開催の運びのために東奔西走されました。
今回の主催は
聖アンドレ福音宣教学校準備局 ペンケレシ神父 です。
E-Mail yohanep@mac.com
ホームページ
http://www.evangelizacion.com/
ペンケレシ神父様の檄を遺言のように感じてはせ参じた参加者は50名を超え、女子と男子の黙想の家を満杯にしました。連休でも誰一人黙想者がなかった黙想の家の現状の中で、唯一人々が渇きをいやす神のことばを求めて集まった研修会グループでした。こんな風にまた黙想の家がみことばの研修会に使われてお役にたてる日が来るように主にお願いいたしました。神父様は、今回の成功に満足して、皆様には、いただいた賜物をどのように使ったのか天国で報告する義務がありますよといたずらっぽく笑顔であいさつされました。(畠)
ラニエロ・カンタラメッサ神父とともに・・・
畠神父どっとコム(hatashinpu.com )の表紙の写真は、「第12回聖霊による刷新関西大会」の最終ミサの後、退堂の様子で、神父様のすばらしい講話に、教えに、またその人柄に触れて、参加者からの感謝の拍手と喜びの表情です。多くの信者さんたちからは、普通の畠神父と違う顔なのでブログの表紙絵に掲載しない方が何かと安全ではという声もいただきましたが、カンタラメッサ神父様は当代一の著名な説教師で、なかなかお目にかかれないのですが、一緒に写っているわたしのお宝写真を掲載しました。もちろん肩を並べることなどできないほど遠い存在です。神父様は、ヨハネ・パウロ二世教皇の聴罪司祭として、また教皇庁の常任説教師として長年仕え、この大会の中で、ベネディクト16世教皇から引き続き教皇庁での説教師の任務を続けるように慰留され再任されたことを発表されました。この大会では、沢田和夫神父さまがご高齢にもかかわらず、最初から最後まで通訳の任を果たされ、お二人の友情あふれる交流が参加者の心をうち希望を与えました。どうして「聖霊による刷新」が既存の教会組織では受け入れらないのか理解できないまま、肩身の狭い思いでひっそりと身を寄せ合い、ひそかに家庭内で祈りの集いをしているというのが多くの信徒の現実の姿です。「聖霊による刷新」はカトリック教会の異分子ではなく、聖霊降臨で誕生した教会の命の源泉につながる刷新運動であることは、このような聖徳の神父様の謙遜な姿にあらわされているのではないでしょうか。
教皇ベネディクト16世のカンタラメッサ神父に対する評価は、カンタラメッサ神父の「来てください、創造主である霊よ」(2003年英語版出版)の本のドイツ語訳の前文に書かれた推薦の言葉(1999年)によくあらわされています。 また当時教理省長官として、刷新運動の流れをどのように見ておられたかもわかる文章だと思います。訳文はウルバン神父さまから入手して日本語で読みやすくわかりやすいように私が手を加え校正しました。間違いがあれば わたしの責任です。=カンタラメッサ神父のホームページhttp://www.cantalamessa.org/
現在、庄司神父さまがカンタラメッサ神父の本を翻訳中ですが、かなり時間がかかりそうです。最近ドイツ語版へのラッチンガー枢機卿の序文(日本語訳)を庄司神父様より入手しました。わたしの訳と差し替えます(6月24日付)
なお、皆さまもご存じのように、「聖霊による刷新」(カリスマ刷新)に対する評価は、日本の教会では問題と考えられ、小教区には不向きというかなり否定的に見られています。かつて活躍された宣教師たちの熱心さや確信に導かれて1970年代後半から日本の「聖霊による刷新」は続いて来ましたが、しだいに、その灯は消えゆるかのように細ってきました。しかしながら、その核となるのは、もともと二人三人で祈るところに「わたしも共にいる」というイエスの約束を信じて成り立つ「賛美の集い(祈り会)」です。そこで立ち上がる賛美のいけにえを通して喜びにも悲しみにも共に生活とみことばを分かち合う兄弟姉妹と出会います。それは、聖霊の愛のあるところ、復活の主との出会いへと変容し、新約のキリストの掟「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」を生きる信仰共同体が形成されます。そのような方向で、カトリック教会の中へ聖霊の炎を燃え立たせる「聖霊による刷新」の努力はからし種のように、これからも種をまき続けるべきものと思います。これは聖霊降臨によって始められた神の種なのです。ひとたび蒔かれれば、確実に芽をだす、そんな思いを皆様と共に祈り続けましょう。百日共同祈願に共鳴して参加してください。
シスター マルガリタ・ビアピラを紹介します。
「イエスは今日も生きておられる」( Jesus Lebt Heute )
ゲスマン和歌子訳 (ドイツ在住)1050円(消費税込)
ドイツで活躍するインド人シスターで、6月に関東大会、司祭黙想会、関西指導者のための黙想会で講師を務めますが、来日に先立ち、シスターの著書を刊行できたことは幸いでした。 カリスマ刷新自体に疑問を持っていたシスターが聖霊による刷新に出会い、今は新しい福音宣教の先達として神から用いられる器となりました。福音箇所とその適用の知恵が満載されており、この本はそのような報告が本そのものの内容だと言ってもいいでしょう。

國井神父さんの新刊書
若者よ 神の民のために自らの才能を神への賛美と奉仕にささげましょう。そうすれば、自らの生き方に不安を抱くことはないでしょう。

五つの御傷の記念
救いの源である父よ
復活された主イエスのからだに 主の御傷が残されました。
その傷によって癒されたわたしたちがいつも感謝をもって
御子の受難にあずかり、新しい復活の命に立ち上がることができますように
聖霊の交わりの中で あなたとともに
世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
奉納祈願
聖なる父よ、
十字架につけられたイエスとともに
この供えものをささげて 祈ります。
わたしたちも み心にかなう供えものとしてください。
わたしたちの主・イエス・キリストによって。 アーメン
拝領祈願
全能の神よ、
いのちの糧で養われる私たちが 御子の傷を心に刻み
愛に満たされて信仰の道を歩むことができますように
わたしたちの主・イエス・キリストによって。 ア~メン
栄光の御傷の祝日(御受難会固有の典礼暦)
主イエズス・キリストの光栄ある御傷 (祝日)
読書
賛歌
槍よ、おまえをどのように褒めようか。
おまえがキリストの脇腹を開き、
教会は生まれたのだから。
キリストの体が眠っている間に
その脇腹から現れた新しいエバよ。
新しいアダムは自らの心臓から流れ出る
血と水の中でエバを生んだ。
釘よ、おまえをどのように褒めようか。
キリストの聖なる手足に打ち込まれたのだから。
おまえが十字架に打ち込まれ、
キリストの御血によって、
私たちの死刑の判決は廃止された。
イエズスよ、聖なる人々と天使たちは
あなたをたたえる。
天の国においても
あなたの手足には釘の跡が残り、
あなたの脇腹には槍の傷跡がある。
そしてあなたは父と聖霊とともに
すべてを治めておられる。
朝の祈りの賛歌
キリストの体には
その激しい死のしるしが付けられた。
それは死の戦利品、
世界に対する勝利の戦利品。
限りない愛の証し
キリストの御傷に栄光あれ。
あなたから途切れることのない紅い川が流れ出る。
あなたは輝きにおいては星にまさり、
薔薇や鳳仙花よりも、かぐわしい。
インドの宝石よりも価値があり、
甘さにおいてはミツバチの巣にまさる。
来なさい。あなたの罪の汚れ、
あなたの病など問題ではない。
この救いの洗礼を受ける者は
再び清くされる。
古い命に死に、新しい命に生まれ、
十字架を通してキリストに従う私たちに、
主の栄光を礼拝させてください。
釘と槍で刺し抜かれたイエスよ。
あらゆる栄光と誉れは永遠に
あなたと御父と憐れみ深い聖霊に。
アーメン。
第6回 連続百日間共同祈願ミサへの招き
主のいつくしみをたたえよう! 主が来られるまで・・・マラナタ!
キリストにおける兄弟姉妹の皆様へ
今年の最初の100日共同祈願は、1月1日から始めましたので、4月10日聖金曜日が100日目です。この日奇しくも、天皇皇后ご夫妻はご結婚50周年の金祝でした。美智子皇后には麦の穂のブローチが襟にありました・・・ 一粒の麦が死なないならば一粒のまま残り、死ねば多くの実を結ぶとのご自身の労苦の実りを表現されたことでしょう。 苦しみのなかに喜びが隠れている信仰の隠し味でした。
そして私たちの100日のミサとしては、前晩の聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサが100回目のミサでした。昨年は、ローマの本部ヨハネ・パウロ大聖堂の脇祭壇にある十字架の聖パウロの遺骨の前で叙階25周年の記念日を祝うことができたのでした。そして、今年は、今回で100日間を5回重ねての500日目は、なんと皆様と共に御受難の記念の聖金曜日に十字架の礼拝をして、主の受難と死を思い主の死を記念するみことばの典礼といけにえの死、神の業である主の十字架の奉献に参加することができ、大きな恵みになりました。
前回の百日共同祈願には、730名の方が参加されていました。そしてこの度、今年の第二回目を4月24日第二復活主日後の金曜日から8月1日、聖霊による刷新関西大会の初日まで、ご一緒に祈るように呼びかけます。 開始日をこの日に選んだのは、主の十字架のあがないの死を通して聖霊の恵みが注がれたこと、また主の復活のからだには傷があったことを覚えておかなければならないと考えるからです。御脇腹からは、血と水が流れ出て、教会の源泉、二つの秘跡、聖体と洗礼により私たちは新しい命の絆に結ばれたからです。しかも、教会の典礼では、聖トマスにご自身の傷を見せて信仰の目を開いてくださった主イエスの愛、主のいつくしみを記念する復活の八日目、教皇ヨハネ・パウロ二世により「神のいつくしみの主日」と付記された、その週の金曜日、御受難修道会の固有の典礼では、5つの傷を記念する祝日、「主イエズス・キリストの光栄ある御傷」を祝います。
この日の典礼で
「主イエズス・キリスト、あなたは尊い御傷から流れた御血で世をあがない、栄光ある復活のお姿において御傷を示し使徒たちの信仰を強めて下さいました。あなたの愛のしるしであるこの聖なる傷を あがめ、あなたの受難により強く結ばれてあなたとともに新しいいのちによみがえる恵みを得ることができますように。 アーメン。 」と祈ります。
わたしたちは主の御傷により、いやしの恵みを受けます。その結果でしょうか? わたしたちが主にゆだねた意向は何らかの効果があったと報告されています。あるシスターは永遠の喜びへと旅立ち、ある方は高齢で手術して奇跡的に帰還、ある方はホスピス病棟で死の病から解放され、ある方からは癌が消滅したとの知らせをうけました。亡くなっていった方も、落ち着いて家族との別れを告げることができたし、その葬儀での安らかな様子に、その後、家族の方々には、身内の方に信仰の恵みが分かち与えられたのです。祈りは無駄なようで一番大きな良い結果を生むことがわかります。なぜなら復活された主イエスの傷に結ばれるからです。
ところで、わたしたちがしている共同祈願には何の意味があるのか、どう考えたらいいのでしょうか? ベネディクト16世教皇は、枢機卿の時代、「典礼の精神」(1999年、濱田了訳、サンパウロ)を著され、典礼の積極的参加に関する考えを表明されていますが、典礼における積極的参加は、「奉献文」にあり、本来の典礼行為はオラツィオ(祈り)であり、それは、主のみが行える一人称の神の業への参加である。 従って、叙階を受けた者も、信徒も同じ主の祈りに参加することには変わらないと指摘しておられます。そのために、その祈りが現実のものとなるためには、「キリストの本当の体になるように願わなければならない。そしてそれこそ願いこまなければならない」とベネディクト16世教皇は述べておられるのです。百日の連続共同祈願によって、典礼の積極的参加をこのような形で、みなさまの日常の犠牲をミサの奉献においてささげることができるのではないかと考えている次第です。
すべては 神の業に参加していく 主のなさることだ・・・
家つくりの捨てた石が、隅の親石となった。
これは神のわざ、人の目には不思議に見える
これからも 私は60歳になるまであと500日を皆様と共に共同祈願ミサにささげたいと思います。これが私にできる皆様のための一番堅実で確実な行為なのです。どうぞ またはがきでお申し込みください。まったく費用は要りません。あなたさまの一緒に祈ってほしい願いを書き込み、無心に毎日東に向かって(心の十字架のこと)あなたのお心をあわせるだけで、一日がキリストの奉献に結ばれます。
日々復活秘義を祝い、お一人おひとりの聖霊降臨をお祈り申し上げます。
感謝のうちに・・・
聖霊による刷新関西委員会委員長
畠 基幸 神父
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〒563-0041
池田市満寿美町9-26
カトリック池田教会
畠 基幸 行き