マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 メガネ発見!

 なんとメガネが見つかりました。記憶をたどって最後に見た日は、車だった。でも何度も何度も車の中を捜し見つけることが出来なかったのに、マリスト会の墓地を訪問して、天の助けを祈った後、ティシュ箱の下からメガネケースが出てきて、嘘だろうと目を見張って中を見るとちゃんとメガネがありました。10月8日から11月12日の今日までひと月ばかりパソコンと読書用のメガネが紛失し、何度もメガネを購入しようという誘惑にさらされましたが、どうも腑に落ちないので、我慢し続けました。いずれ出てくるはずだ。可能な所、行動範囲の全体を何度もくまなく探したし、いろいろな人に聞いて恥もかいた。どこへ落としたのか?もう疲れた。いや、いつか出てくるはずだ。ブログに書き入れることは目が疲れる。もう避けていました。

 聖アントニオさまならぬ聖マリスト会の聖なる宣教師たちへのお願いが効いたかな・・・。きっとジョークして笑っていたのでしょう。あれはまじめすぎるからな・・・ ときどき笑わさないとだめになるかもとか・・・心配してくれたのかな。

 メガネを紛失して、何かを失うことよりも、自分の中に知らないことが生じたようでとても困惑しました。あるはずのものがない。ずっと記憶をたどり、思い出して、ようやくあの時からないのだという車に行きついたのでしたが、探してもそれがないので困惑して、ようやくドアから落ちたのかもと納得し始めたところでした。 

 発見できた時は、とてもうれしくおかしさが湧き上がってきました。失うまいとして、いつも使わないところへ置いてしまったのでした。銀貨を失って発見したあの喜びがわかるようです。日生中央の金曜日の10時のミサには誰も来なかったので、一人で大きな声で歌い、感謝のミサをささげました。マリスト会の亡くなった神父さんたちも一緒に安心して笑ってくれたことでしょう。このところ笑うことも休むこともない毎日の連続でしたから・・・。

 墓参 (御所 gose  マリスト会墓地 )

11月11日(木)奈良県御所(ごせ)市に出かけました。

 今年は パウロ・グリン神父さまの黙想会や講演会を企画し、「愛の鉄道」の上映会などグリン神父さんを迎えてお話を聞くこともでき恵まれた一年でした。11月、死者の月、別の要件で御所教会を訪問したのですが、この御所教会の敷地には、マリスト修道会の恩人神父さま方が葬られていることを教えていただき、霊に導かれたように墓所を訪問しました。今年の縁(えにし)なのでしょう。

 1983年春から1984の復活祭まで私は、奈良教会の助任として派遣され、叙階後の最初の一年をマリスト会に預けられ研修するように命じられたのです。マリスト会の神父様たちから末っ子の弟のように兄弟的司祭の交わりに入れていただきました。トニ・グリン神父さまは、その頃、日豪の和解と交流のとても重要な局面にあって遁走しておられことが、ー豪日に架ける「愛の鉄道」ーを見てわかりました。もっとあの頃よく教えていただければよかったなと思うのですが、日本人の司祭ということだけで内容がなくてもよくほめていただきました。「彼はちゃんとした日本語を話しますから・・・」(そう言われると、わたしは自分の日本語に自信がなかったのでちょっと気恥ずかしい気持ちでした・・・)。トニ神父様は、カリスマ刷新の司祭黙想会を日本で最初にイニシアチブをとって企画し、三田の大学セミナーハウスで毎年100名前後の司祭が参加する大きな会になりました。世界中の有名なカリスマ刷新の指導者を迎える交渉力や運営費のねん出に尽力されていました。わたしも刷新の祈り会からは神学生の間は遠のいていましたが、この時、サリバン神父とSrブリッジ・マッケナの黙想会に全額無料で招待され、恵みにあずかることができたのはマリスト会の神父さんたちのご好意によるものだった。

 「御所」というところは、70年代後半頃 ベトナムからのボートピーポルを受け入れた難民キャンプがあり、マリスト会の神父さんがその受け入れに政府と交渉したりしていました。ちょうど、外務省の役人に大学の先輩でTさんという方がいて、視察に来られたので一緒にキャンプを訪問しました。同じころ、Sさんとも難民の定住問題で接触がありました。Sさんは、カトリック信者で国井神父さんの命の恩人です。(※ドイツ留学前で勉強のしすぎで心臓が弱って、風呂に入って眠りこんでしまい、発見が遅れれば亡くなったところを、当時東大の学生だったSさんに発見されて救われたという事件がありました。)Sさんは東大の国際政治学博士課程から転身して国連に入り、香港にある国連難民高等弁務官に任命されて日本に戻ってきておられ、日本政府に様々な要求をしていました。わたしが神学生の頃、ウォード神父さんは彼が司祭になるように祈り続けておられ、わたしにも祈るように要求されたのですが、どんな聖なる司祭の祈りも本人にその気がなければ実現しないという見本のような体験でした。正義感にあふれ、容姿端麗、ありあまる能力に実力が伴い、日本政府の役人を翻弄できるこんな素晴らしい人物が教会にいる、この人が神父でいてくれたらとどんなに素晴らしことだったろうか?ウォード神父は彼に惚れこんでいました。私たちは失望せず祈り続けたが、彼は、でもあまりの素晴らしさのために、日本政府からの抵抗もあり、ポストを降ろされる不遇な時がありました。その後、もっと才能に恵まれたすばらしい女性と出会い、その後は奥さんが国連で働き、彼は主夫業に専念し子供の教育に専念して表舞台から退きましたが、それでも家族でジュネーブに住み、国際派の日本人として華麗な雰囲気があり、何事も時代の先端を行くような人物でした。司祭職にはこのような華麗さはいらないので、やはりそれは無理で無駄な祈りだったような気もします。トニ・グリン神父さんは、その華麗さと司祭職を兼ね備えた人物でした。その一端は、国際的にも、テリアビブで事件を起こした赤軍派のテロリスト岡本公三との面会に成功したこともあるほどの外交官のような行動家でした。

 わたしは、もう、還暦を迎える60歳で、回顧録ではないですが、このマリスト会の墓所にきて、墓石に刻まれる神父さんたちの名前を見ていると、それぞれの神父さんの思い出がありありと浮かび上がってきて、感慨深いものがあります。亡くなった年齢を見ると、私よりも若く亡くなった神父さんもあり、ずいぶんと年上に見えた神父さま方が、ほぼわたしと同年代に亡くなったと知ると、何か驚くものがあります。まだ若かったのだ!まだまだやり残したことがあったのだろうと思うと同時に、わたしも何も残さないうちに世を去る時期が来るということが現実のものとして感じられるのでした。

 いい時間だった。そして追悼のミサをして感謝をささげて、御所を去りました。わたしができることはこのような地味なことです。どうか一日も早く、天においても地においても神がすべてにおいてすべてとなるように、とりなしてくださるように祈ります。・・・神父さま方 ありがとうございました。

 
 御所墓所1 御所2
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