マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 共同祈願 500日間 完遂

4月10日 聖金曜日 
 今年の最初の100日共同祈願は、1月1日から始めましたので、4月10日が100日目です。100日のミサとしては、昨日の聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサが100回目のミサでした。昨年は、ローマの本部ヨハネ・パウロ大聖堂のわき祭壇にある十字架の聖パウロの遺骨の前で叙階25周年の記念日を祝うことができたのでした。そして、今年は、今回で100日間を5回重ねての500日目も皆様と共に御受難の記念の聖金曜日に共同祈願を成し遂げることができたことは大きな感謝と恵みになりました。

 聖木曜日の毎日の黙想のブログにベネディクト16世教皇の「典礼の精神」(濱田了訳、サンパウロ)に書かれていた典礼の積極的参加に関する考えを引用したのですが、典礼における積極的参加は、奉献文にあり、本来の典礼行為はオラツィオ(祈り)にあり、主のみが行える一人称の神の業は、叙階を受けた者も、信徒も同じ主の祈りに参加することには変わらないと指摘しているところがありますが、「キリストの本当の体になるように願わなければならない。そしてそれこそ願いこまなければならない」とベネディクト16世教皇が述べておられることをこのような形で、みなさまの日常の犠牲をミサの奉献においてささげることができたことは望外の喜びです。 

 その結果でしょうか? 何らかの効果があったと報告されています。あるシスターは永遠の喜びへと旅立ち、ある方は高齢で手術して奇跡的に帰還、ある方はホスピス病棟で死の病から解放され、ある方からは癌が消滅したとの知らせをうけました。亡くなっていった方も、落ち着いて家族との別れを告げることができたし、その葬儀での安らかな様子に、その後の家族の方や身内の方に信仰の恵みが分かち与えられたのです。祈りは無駄なようで一番大きな良い結果を生むことがわかります。なぜなら復活された主イエスの体に結ばれるからです。

 とりわけわたしには25年の節目の年に、お世話になった方々のことを思い起こし祈り続けました。わたしは、思いやりや気遣いが大変下手ですし、まったくそういう他者を愛する訓練にかけていたと思います。実際、手紙一つ返事ができていない。企業に入っていたら、たいへん苦労したに違いありません。気配りがまずできないからです。実際、この気配りと隣人愛の行い、いわばキリストの無制約の愛は似通っているのです。ですから、司祭になったことは、本来気配りの達人でなければならないのですが、そうではないのが不幸でした。ただ言葉だけ仕えられるものではなく仕えるものになりなさいと偉そうなことを言っていただけでした。その意味で、わたしを支えてくださった方々に感謝を述べたいと長年の忘れていた人々を思い起こそうとした一年でしたが、あっというまに過ぎてしまった一年でした。肝心の足もとの司牧も中途半端なもので時間だけが過ぎていった一年でした。昨年末に年賀状も書けないで、今度の復活祭に送ろうと決心したのでしたが、この復活祭が来てしまいました。あああああとため息がでて、何を決心したのか? あなたに何をしたのか? とがめのことばだけがわたしにのしかかります。

 すべては 神の業に参加していく 主のなさることだ・・・
 わたしは所詮 上に書いたように自分では何もできない輩です。

 これからも 周りは見ないで 60歳まであと500日を共同祈願ミサにささげましょう。これが私にとっては皆様のための一番堅実で確実な行為なのです。どうぞ またはがきでお申し込みください。まったく費用は要りません。あなたさまの願いを書き込み、無心に毎日のミサにあなたのお心をあわせるだけで、一日がキリストの奉献に結ばれます。人の救いを目撃できることはなんという幸せでしょう。次回は4月26日(日)から今年の二回目の百日共同祈願を始めたいと準備しています。 (開始日を4月23日に訂正します。4月23日の金曜日 御受難会の移動記念日 「栄光の傷の記念日」だからです。復活されたイエスの脇腹には受難の傷跡があるというのは、御子がわたしたちと同じ人間となられたことの象徴です。そしてわたしたちの復活をも先取りしているのです。アレルヤ)

 よい復活祭をお迎えください。
 感謝のうちに・・・ 叙階26周年を迎えた 畠神父より
 
昨年のジャカルタでのISAOアジア大会、インドネシア駐在教皇大使司式による共同祈願ミサ・・・写真はミサ後教皇大使を囲んでの記念撮影が背景です。

ジャカルタ01

天皇ご夫妻はご結婚50周年の金祝でした。美智子皇后には麦の穂のブローチが襟にありましたね・・・ 一粒の麦が死なないならば一粒のまま残り、死ねば多くの実を結ぶと ・・・信仰の隠し味ですね。
エアsテr2009シカゴ在住のアルゼンチン人の御受難会司祭ギブソン神父のメールに添付してありました。

 聖金曜日

Lk 23:46
「父よ わたしの霊を御手にゆだねます。」
Father, into your hands I commend my spirit.

イザヤ 52章13節~53章12節 (第四しもべの歌)

 苦しむしもべの歌のもっとも重要な箇所、

詩篇 31、 2節、6節、12~13節、15~16節、17節、25節
 信頼をもって、神のみ顔を求めて、御父の御手に自らをゆだねる。
 「父よ、ゆだねます。 わたしの すべて
    父よ、ゆだねます。 あなたのみ手に」 (テゼ)


ヘブライ書 4章14節~16節、5章7節~9節
 イエスだけが、人と神との和解のいけにえとなることができる。罪の完全な贖いの汚れないいけにえとして大祭司キリストは至聖所に入られた。

ヨハネの福音 18章1節~19節、42節
 契約のいけにえとして完全に自らを渡された。
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