マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 聖金曜日

御受難の福音

聖なる過越の三日間、典礼において、主の過越の神秘を祝います。典礼と日々の生活が乖離するところには、典礼が儀式に終わる形骸化が始まると言われます。典礼はキリストの祭司職に共同体が参加する全キリストの祈りです。キリストは目に見えない神の秘跡であり、人となられた神の現存をあらわすしるしです。神は共におられる。イエスは御父の似姿としての秘跡なのです。わたしを見たものは父を見たのだと・・・わたしにとって聖なる金曜日、御受難の福音を読むこの日、このことの真実さが問われているように思いました。あの東日本大震災を前にして何を語れるのだろうかと。

祈り推進グループの通信ニュースの復活号に次のような巻頭言を書きました。

主の復活おめでとうございます。
典礼的には復活祭を迎えたのですが、現在も、大地震、大津波、原発炉心破損事故の影響は収束するどころか、じわじわと受けた傷が膿み、体中に毒が回り、痛みと苦しみがうずくような感じです。皆さまも被災者の気持ちに寄り添い、被災者のためにわたしに何ができるのか心を砕いておられることでしょう。
あの日、3月11日は、灰の水曜日から始まる四旬節の最初の金曜日でした。夕方のテレビのニュースを見るまでは、東北に地震が起こったと聞いていただけで、何事もなく普段通りの生活のリズムでした。しかし、目に飛び込んできたのは、町の家々をなぎ倒す大津波の恐ろしい生の映像でした。しばし映像を食い入るように見ていました。7時半、テレビのスイッチを切って十字架の道行のために聖堂に行くと、誰も来ていません。一人で十字架の道行を始めました。
この夜、十字架の道行は、司祭のわたしのなすべきことを教えてくれたのでした。わたしは、苦しみの意味を教える神学書を読みふけっても、四旬節以外には、実際十字架の道行をほとんどしなかったことを告白しなければなりません。先輩神父が十字架の祈りを信心として毎日していても、あまり意味を感じなかったのです。ところが、あの悲惨な災害の場面を唖然として傍観していたわたしを救ってくれたのは、たまたま四旬節の義務で、十字架の道行に赴くことができたからでした。あの晩、直接に苦しみ叫ぶ人々の姿を目にし、その人たちのためにイエスによりすがるように祈りました。一留ごとに、生の現実の恐ろしい現場が目に浮かびます。一瞬のうちに命を、家族を、財産を、隣人を、村を、根こそぎに剥ぎ取られた人々の無念を想い、残された家族の嘆きと喪失に同伴しました。十字架の道行は、その日から信心ではなく、リアリティのある苦しみの連帯となりました。あの日から、わたしの毎日の祈りとなりました。

典礼なしには現実を理解できないこともまた事実だなと思います。 
この現実の前にしての祈りを最近入手した「日本のいやしのための十字架の道行」を説教の時に振り返りました。
この十字架の道行の祈りは3月17日にMichele Vincent Fisher, (CSFN)さんによって作成されました。伝統的な信心の祈りが現実の苦難のコンテキストのなかでわたしたちの存在そのものを揺り動かします。PDFファイルを添付します。
十字架の道行
 見るだけで涙が出そうになり 説教には使えませんでした。ただ祈ることが被災者に連帯する最初の一歩になると思います。

被災地の様子をご覧になるには:
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