マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 新しいぶどう酒

ブログの更新がなかなかできません。ゴールデンウィークには、北海道札幌へ大会講師として出張いたします。なかなか全体の構想が生まれませんので皆さまのお祈りお願いします。

 大会のテーマは、「味わい、見よ、主の恵み深さを」(詩篇34:9)です。マテオ神父のトレードマークだったみことばです。

 この味わいのテーマは、今年の四旬節で、長崎西町教会、奈良登美が丘教会と黙想会の講話の中で、「あたらしいぶどう酒」という象徴を使って話を展開しました。

以下の講話は、奈良登美ヶ丘教会で3月5日夜に話した第一講話です。講話は三回あり、話した分量はもっと多いのですが、教会広報部で「丘の星」発行100号を記念特別号に収録するため、編集縮小されました。その分よくまとまり、わたしはアウトラインもなく、ただひたすらに「新しいぶどう酒」というテーマだけを考えて、突っ走って出てきた内容です。終わってみて聞いた人がタイトルまでつけて、ここまでまとめてくださったのに脱帽しました。そして、わたし自身、こんな話をしているのかと勉強不足の自分の生の姿を見て、卑下することなく聖霊に感謝いたします。絶妙にわたしの足らない部分が補われているからです。同じ話はもう一度できません。原稿はありません。私が話した表現で誤りの事実と発言の内容の違う点は少し訂正しました。
「聖霊は、人間の心を動かして、神に向かわせ、精神の目を開いて、『すべての者に、真理に同意し、信ずることの甘味さを』味わわせる。同じ聖霊は、啓示についての理解がますます深くなるように、その賜物をもって絶えず信仰を完全なものにする。」(啓示憲章 第一章5項神の啓示への人間の応答)

第一講話
 聖霊降臨の後に「新しいぶどう酒」という言葉が聖書(新共同訳使徒2章13節)に出てきます。そこでは人々が故郷のことばを聞き喜んでいる様を新しいぶどう酒に酔っているんだとあざ笑われたように、あまり良いイメージはありません。一般には、古いぶどう酒は熟成されて美味しいものですが、新しいぶどう酒は出来たてで、香りもあまりないものです。(これを聞いた人が「新しいぶどう酒」の生を贈ってくださり、香りも良く飲むと甘いジュースのように美味しいものでした。しかしお酒飲みにはうまくないのかもしれませんね・・・)
「新しいぶどう酒」とは、イエスの霊が注がれることです。ヨハネの福音書には「私はまことのぶどうの木であり、あなた方はその枝である。人々は私に繋がっており、その人は豊かに実る」とあります。「父が私を愛したように、あなた方も愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てる事。これ以上の愛はない。私はあなた方を友と呼ぶ」(ヨハネ15章)。私達は神様から愛され、イエス様を通して聖霊という樹液に満たされて、神様とつながっていきます。

◆創世記の出来事
創世記で、エデンの園のアダムとエバは、命の木を取って食べていましたが、「食べたら死ぬと言われたのか」などと誘惑され、もつと美味しく思われて、食べるなと言われた知識の木を食べてしまいます。これは不信仰の芽です。知識の木は魅力的で良かったけれど、神様に対する不従順で追い出されました。人間が自分で取って食べたことから始まりました。
知識の木は哲学の世界では「我とそれ」と表されます。「我とそれ」は人と物の関係。自己中心的で、他者を支配します。一方、命の木は「我と汝(なんじ)」と表されます。「我と汝」は対等で、私とあなたという形です。イエス様は「取って食べなさい。これをあなた達に与える」とおっしゃいます。信仰の世界では「我と汝」が必要であり、重要です。そして、神様はアブラハムを「我と汝」の関係に呼ばれました。(マルチン・ブーバの「我と汝」からアイデアを転用)

◆技術万能の社会?
王国の時代、人々は「我とそれ」という関係に流され、偶像礼拝が出て来ました。人間の作ったものをあがめ拝むようになりました。そして現在も、技術が万能で、間違っているのは人間だ、という風潮があります。人間が自分の作ったものを誇るようになっています。人間が自分の技を誇るのが、偶像礼拝の基本行動です。一生懸命作ったものを批判されると、自分が批判されたように思って怒ります。自らを神のように誇りに思うから、トラブルがあってもすぐに反応しない。自分が正しいという思い込み、絶対正しいという世界観です(豊田社長のアメリカの公聴会での発言を例えに)。この知識の木は古いぶどうの木。自分で採ったぶどうの木が、魅力的で美味しい古いぶどう酒になり、悪の世界へと誘います。それが人間の中に入ると支配被支配の関係になります。人とのコミュニケーションも「我とそれ」では上下関係があるようになってしまいます。

◆命の木
 一方、命の木は新しいぶどうの木。「我と汝」は真の枝につながり、実が実ってよいぶどう酒となります。神様から離反した悪の世界に新しい命の木が必要でした。それが、イエス様。回心の恵みをもたらすために。イエス様は人生において私たちと同じ心を持って十字架を背負われ、そして復活されました。私たちと神様の関係も「我と汝」の関係に立ち帰り、わたしの主、わたしのお父さんとならなければならないのです。三位一体の神様とは、生きている方と話すように祈りましょう。

◆みことばを大切にしよう
イエス様によって、みことばが肉となられました。みことばは、聖書を読むと私たちの身に付きます。生きておられ、復活された方の秘跡を通して神様と出会う事が出来ます。信仰によって聖書を読めば神様の言葉となります。みことばを尊敬しましょう。聖書を飾るだけではダメ。みことばを読むことで、命のパン、命の糧となります。

◆私たちが新しいぶどう酒になる
イエス様は「互いに仕えあいなさい」とおっしゃいました。互いのために、もつと多くの新しいぶどうの木、復活の宴に使われる新しいぶどうの木と新しいぶどう酒が必要です。私達は新しいぶどう酒に酔わないといけません。新しいぶどう酒は新しい考え方であり、新しい生き方。新しいぶどう酒に新しい皮袋。私達自身が変わらなければ。古い皮袋に新しいぶどう酒を入れると、発酵して皮が破れてしまいます。まだ古い皮袋に古いぶどう酒を入れていませんか?新しいぶどう酒は美味しくないかもしれないが私達を変えてくださる。私達は水のようなもの。イエス様は新しいぶどう酒に変えてくださいます。あのカナの婚礼のように。

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