マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 死者の日の説教

 (1) 日曜学校の子供たちに死者の日の説教を即席で頼まれました。
 ( 即席の挨拶です。)

 今日は死者の日です。みなさんの家族やおじいさんやおばあさん、あるいは身近な人で亡くなった方はいますか? 亡くなった方はどこに行かれたのでしょうか? 天国ですか? 天国ですね・・・皆さんが今日のミサの中でお祈りしましたね。 亡くなった人が天国にはいるように祈りました。
 天国は一体どんなところですか? しあわせなところ? なんでも物事がかなえられるところ? おいしいものが食べられるところ?どんなところでしょう? みなさんはどんな風に感じますか? とにかくすばらしいところですか?
 わたしたちは洗礼を受けましたね。洗礼はイエス様の死と復活にあずかることですね・・・みなさんもイエス様の死にあずかりました。そして復活すると信じていますね。イエス様が先に復活されたように・・・
ですから復活するとは、イエス様と結ばれてイエス様と永遠に生きることなのです。これはわかりにくいかもしれませんが、亡くなった人は、神に似たものとなり、神と顔と顔を合わせて永遠の喜びに入ります。天国は、そのようなたくさんの聖人、天使、聖母マリア様、わたしたちの恩人や友人が一緒にいるところです。天国は交わりがあるところです。絆があるところです。

 天国でないところ、地獄はどんなところかな? イメージしにくいかもしれませんが、関係が断たれたところです。つまりあの人嫌い、あの人は苦手などということ、あるいは一人にしておいてくださいというようなことはお友達関係が壊れます。だから、地獄は愛のないところですね。。。借金地獄とか蟻地獄とか 地獄はやはり恐ろしい苦しみのあるところでもあります。助けがありません。永遠の死なのです。「蜘蛛の糸」という本を読んだことがありますか? ある人が地獄で苦しんでいいるとき、神様があわれんで天から地獄に糸を垂らしてくださったのですね・・・うろ覚えですが、それで糸をたどって天に上っているうちにふと下を見ると自分の後にたくさんの人が糸を手繰っているのが見えました。そんなに多くの人がぶら下がっていると糸が切れてしまうと不安になり、それで、下の人が上れないように糸を切ると、自分も一緒に落ちて行きました。 自分だけ天国に入ろうとしても入れないのです・・・みなが一緒にいるところが天国です。
つまり、天国はつながりや交わりがあるとこです。それは愛ですね。みなさんのお父さんやお母さんは皆さんのために一生懸命愛を与えてくださいました。みなさんが 愛のある人になるために愛を注がれたのです。その愛を生きることが天国に入る条件です。愛は差別しないし、おごらず高ぶらず、隣人を愛します。

 洗礼を受けていない人も愛を実践します。家族を愛します。家族のきずなを大切にします。みなさんは、「絆」の漢字を知っていますか?、いとへんであり、もうっ片方は「半」ですが、これはひもをぐるぐる巻いて絡めることを意味します。糸でつながっているのです。

 でもこの糸は、家族だけではなくて、すべての人を結ぶ糸でなければなりません。なぜなら天国はあらゆるものが結ばれて一つの体、キリストの体となるからです。キリスト者は家族以外のものも自分の家族と同じように一つの仲間一つの体一つの愛、一つの希望、一つの信仰に結ばれて 永遠のいのちを受け継ぐのです。(畠)

(2)知的障害者施設での説教(11月3日 聖ヨセフ寮にて)

 わたしは池田教会のハタ神父です。おはようございます。
 今日は、皆さんの亡くなったお友達や先輩のためにお祈りします。
今お読みした福音のことばは、イエス自身が「わたしがその人を終わりの日に復活させることである」と話されことばです。この聖書のことばは驚くほどの言葉です。イエス様は御父から全権をゆだねられて最後の時にわたしたちを復活させてくださるのです。イエス様は、とても優しい方で、病人や女性や子供を慰めたり親切にしたりしました。この方が最後のときにとりなしてくださるのです。だからわたしたちは生きている間イエス様のことをもっと知って親しくなり、またイエス様がおっしゃったように、互いに愛し合いましょう。お互いに仲良くなりましょう。

 今日は、死者のために祈っています。それはどういう意味でしょうか?教会では、昔から死者のために祈ります。天国からは、聖人や殉教者が祈ってくれます。死者は、永遠のいのちに入りましたが、まだ天国にいく途中です。そこは最後の清めを受ける状態です。だれも、死から戻ってきた人はいませんが、死に近い状態、臨死体験した人の話はとても参考になります。わたしの教会には中島さんという方がいます。33分間心臓が停止した状態でほとんど植物人間になりましたが、またこの世に生還されました。中島さんは、この臨死体験を「世界一やさしい先生にさせてください」の本の中で話しておられます。気がつくと、亡くなった人たちに囲まれていました。93歳で亡くなったお母さんもいました。でもすごく若くて元気でした。小鳥に会いました。ちゃんと言葉がわかるのです。何を食べたいかと聞くのでカレーライスを食べたい念じると一瞬のうちにカレーライスが出てきました。懐かしい人に出会いました。障害のあった人は自由に動いていました。オッシコもしました。とても匂いのよいものでした。そのうち光の方へ行くように肩をたたかれました。皆そちらの方へ行くのに、自分の奥さんがいないのがちょっと違和感があって奥さんの名前を読んだとたんに痛みを感じて目が覚めたそうです。

 痛みを感じた時が心臓が動き出した時たっだようですね。とにかく、死んだあと懐かしい人たちと出会いました。生きているときにとても仲が良かった人たちです。そして光を見ました。その人たちは親切に光の中へ案内してくれるところでした。とても暗い所でしたがその光で照らされていました。ここから少しいろいろ生き方のヒントがあるように思いました。
 生きているときに、仲良く助け合っていることが大切です。「蜘蛛の糸」という小説を聞いたことがありますか?地獄にいる人が苦しんでいると神様があわれに思って蜘蛛の糸を垂らしてくれました。それに手をのばして糸をたぐって上へと昇って、ふと下を見るとたくさんの人が次から次へと昇ってきます。これでは細い糸が切れると思い、糸を切ったら、自分も元の地獄へ落ちて行きました。自分だけ天国へ行こうとしたら地獄へ落ちてしまったのです。天国は一人だけだったら天国ではありません。どういうところが天国でしょう。家族の絆、絆という字は「糸」と片方は「半」という字できています。これはぐるぐる巻きという意味ですが、天国はいろいろな絆がぐるぐるとつながって巻かれているのです。仲間一人一人とつながっている。先生や両親と結ばれているのです。そして、天国はこのようなつながりがしっかりしているのです。

 今日は、死者のために祈っています。この祈りは香のように天に届きます。亡くなった人たちはわたしたちの祈りに感謝しています。これまで切れていた糸が少しずつつながれて一本の糸に光の源まで届きます。天国に入る前に、清めの時がありますが、それはこのような祈ることによってしっかりしたつながりが回復していくことなんですね。そして天国に行った仲間たちは、わたしたちが死んだとき、今度はわたしたちのために光の中からいち早く駆けつけてくれます。鞍山の中で迷わないようにね!ちゃんと光の方へ案内しくれます!

(3)カンタラメッサ神父(フランシスコ会教皇庁説教師)
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである。」堀江幸雄 訳

 諸聖人の祝日と死者の祝日は、共通のものがあり、この理由からこの時期に続いて置かれています。両祝日とも、超越的なことを語りかけます。 もし、死後の命を信じないなら、聖人の祝日を祝う、まして墓参りをする価値はないでしょう。だれを訪ね、ロウソクをともし、花を捧げるのでしょうか? こうして、この祝日の全ては、知恵をめぐらす考察に招きます。 
「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」(詩 90:12)と詩篇は詠い、イタリア人詩人ジュゼッペ・ウガレティ(G. Ungaretti)(1888-1974)は「わたしたちは秋の日の木の葉のよう」、と詠います。
 
 張るには木々はまら花ひらき、しかし、別の葉をつけます。わたしたちの後にも、世界はつづきますが、そこに住む人は別の人間です。 木の葉に第2の生命はありません。木の葉は、木をはなれ、下に落ちます。わたしたちに起こることも同じでしょうか? 似ているのはそこまでです。イエスは約束されました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ 11:24) これは信仰上のクリスチャンだけではなく、ユダヤ教徒、イスラム教徒にとっても、ペルソナをもつ神を信じる人全てにとって大きな挑戦です。

 映画「ドクター・ジバゴ」を見た人々は、サウンド・トラックの有名なララ(Lara)からの歌を覚えていることでしょう。イタリア語訳は「何かわたしには分からないが、わたしたちは決して帰らない土地がある・・・」と歌います。 この歌は、この映画の原作であるボリス・パステルナークの有名な小説「Доктор Живаго」の意味を描いています。二人の恋人が互いを見出し、互いに求め合いますが、あのロシア革命の動乱の時代に、運命は二人を切り離します。最後の場面で二人は、ユーリー・ ジバゴは恋人ララを見かけますが、相手は気づかずに、去ってゆきます。
 
 この歌の旋律を聞くたびに、わたしは「そうです、そこにはわたしたちが決して戻らない、そして戻ることを望まない場所があります」と自分の信仰が心の中で叫び出します。イエスは、行ってわたしたちのためにそれを準備して、その後復活を以ってわたしたちのために命を開いてくださり、「眞福八端」(マタイ 5:3-11参照)に従って生きるように示されています。時間が止まり、永遠への道をなす場所:愛が満ち、全てである場所。単に神の愛と神への愛ばかりではなく、地上に生きた、正直なそして聖なる愛の場所。

 信仰は、死ぬ定めの苦悩から人を解放はしませんが、希望を以って慰めます。死者の日のミサの、入祭唱は、「もし、死の定めの悲しみがあるなら、将来の不死の希望はわたしたちを慰める」と詠います。 
 この意味で、1972年にロシアから来た感動する証しがあります。死線に向かう兵士Aleksander Zacepaの上着のポケットにあった、第二次世界大戦勃発直前に作られた祈りが、秘密裏に発刊された雑誌に掲載されました。その祈りは次のとおりです:

 「聞いてください、神さま! わたしが生きている間に、わたしは神さま、あなたと一度も話しませんでした。 しかし、今日、わたしは褒め称えたいのです。幼いときから、人 々は、神は居ないといつも言ってきました。 そして、バカなことに、わたしはそれを信じました。 わたしは、神さまの御業を考えたことがありませんでした。しかし、今晩、砲弾のくぼみの中から、満天の星を眺めています。わたしは、その星の輝きのすばらしさに魅せられました。その瞬間に、わたしはあ の幻想のひどさが分かりました。神さま、あなたが御手をわたしに伸ばしてくださるか、知りませんが、わたしは申し上げます。
『あなたはわたしを分かってくださる・・・。この怖ろしい地獄の最中にも、光がわたしに現れ、そして、わたしがあなたを見出すことは、不思議なことではないでしょうか?わたしは何もあなたに申し上げることはありません。わたしは幸せです。それはあなたを知っているからです。真夜中に、わたしは攻撃に出陣します。しかし、わたしは怖れません。あなたがわたしたちをも見守っているからです。
 今や、出陣の合図が出ました。わたしは出かけねばなりません。 神さま、どれほど良かったことでしょう、あなたと共に居ることは! わたしはあなたに申し上げたい、そしてあなたはご存知です。戦闘がむつかしいことを。たぶん今晩、わたしはあなたの下に伺うでしょう。そして、もし今までに、わたしがあなたの友人でなかったとしても、わたしが伺ったときに、そこに入ることを許してくださるでしょうか?しかし、わたしに何が起こるのでしょうか? 泣き出しますか? わたしの神さま、わたしに起こってきていることをよく見てください。今になって初めて、わたしははっきりと見始めています。わたしの神さま、わたしは出陣します。 生還はむつかしいでしょう。不思議です。今、死が怖ろしくありません』。」

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