マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


<< 死者の日の説教 | main | レクチオ ディヴィナ(聖なる読書) >>

 11月3日 福者ピオ・カンピデッリ修道者

ピオ01聖ルイジの福者ピオ(カンピデッリ)は、一八六九年四月二九日、リミニ(Rimini)教区、トレッビオ(Trebbio)の農家に生まれた。あるミッションの機会に御受難会を知り、一八八二年五月二七日、御受難会の修道服を着衣した一八八四年四月三〇日、カサーレ(フォルリ)の聖マリア修練院で、修道誓願を立て、御受難会の厳しい生活に情熱的にとりかかった。
福者ピオは、聖体と聖母への信心、まことの兄弟愛、勉学に対する大きな熱意で目立っていた。聖アロイジオ・ゴンザガと悲しみの聖母の聖ガブリエルの模範にならい、七年の修道生活の中で、あらゆる徳を実践しつつ、すべての人々にとって、忠実さと、喜びにあふれた熱心さの完全な模範となった。
司祭職への準備をしている間に、重病にかかり、一八八九年十一月二日、カサーレ(Casale)の修道院で、甘美な脱魂のうちに死去した。教会と教皇のため、そして愛する故郷、ロマーニャのためにその若い命を犠牲として捧げた。一九八五年十一月一七日、教皇ヨハネ・パウロ二世により、列福された。
福者ピオ・カンピデッリの列福に際しての教皇ヨハネ・パウロ二世の説教

あなたがたは地の塩である

 教会は、今日の典礼の中で、山上の説教で語られた、主キリストの、このみことばを私たちに思い起こさせます。塩は失うことのない、それ自身の味を持っています。この味のおかげで、塩は、地にも、人間にも必要なのです。食べ物は塩なしには味がなく、おいしくありません。まさに、そのために、塩はその味を保たなければなりません。もし、塩がその味を失えば、もはや、何の役にも立たないのです。(マタイ5:13参照)
主イエズスは、このみことばを弟子たちに語られます。そして、たとえを用いて、そのことをお話しになります。〝あなたがたは地の塩である〟 あなたがたは塩でなければなりません。人類の命に味を―福音の味を―与えなければなりません。あなたがたは、地の塩であってください!
 教会は、このみことばを、今日、列福の栄誉を与えられる御受難会員、福者ピオ・カンピデッリに当てはめます。聖性は、キリスト教的生活の特別な〝味〟であります。この意味で聖人たちは、地の塩となっているのです。(教会憲章三十三参照)
 よい塩のように、聖人たちは、人間生活の多様な経験の中に、また、彼らが遣わされた歴史の時代に入り込み、忠実で、英雄的なまでの福音のあかしという濃い味によって、彼らが置かれている環境に、キリストの教えを浸透させるのです。このようにして、聖人たちは、この世界における教会の使命の漸進的な実現に貢献しています。
この国際青年年に青年ピオ・カンピデッリ、聖ルイジのブラザーピオは、列福の光栄を与えられました。彼は、味のよい塩のように、自分の故郷とその人々のためにいのちを捧げました。教会のため、教皇のため、罪人の回心のため、そして彼のロマーニャのために自分のいのちを捧げたのです。
 ブラザーピオは、自分の修道生活の根本的な価値を、実に自分自身を与えることにおいて見出しました。彼のこの本質的な内面的特徴は、特に、彼の死の時についての証言に表れました。その時、〝彼は終わりが近いことを完全に知りながら、神のご意志に一致して、自分の犠牲を完成するため、絶えず準備していました。彼はそれを教会のため…特に、彼の愛するロマーニャの善のために捧げました。〟 (列福調査書より)まさに、その時に彼の徳の特徴があらわれました。彼の霊的生活全体のすばらしさがあらわれてきました。
 ピオ・カンピデッリは、幼少の頃から祈り、典礼、公教要理などに魅力を感じていました。そして、家族のよい模範に支えられて、そのような魅力に対して忠実で、熱心にそれに応じたのです。例えば、聖母マリア、ご聖体、十字架上のキリストに対する信心を無邪気な子供らしい仕方で、あらわしました。御受難修道会に入会した彼は、心に抱いている神との一致への大きな熱望を育むために、又、司祭職への準備に励むために適した雰囲気をそこに見出しました。彼は、司祭職を通して、他の人々をも、このすごい体験に巻き込みたいと望んだのです。しかし、司祭職を受けることができませんでした。なぜなら、神は、彼を二十一才で、ご自分のもとにお召しになったからです。 
イエズスの受難、死、復活を絶えず記憶するという、御受難会の特別誓願を生きることに、彼は自分の全生涯をかけました。こうして、その修道家族に与えられた固有の使命を実現したのです。
貧しい家族の出で、体が弱く、知性は普通であったが、そういう貧しさと自分の限界を不運と思わず、又、そのために挫折を感じることもありませんでした。かえって、自分を最大限に実現したのです。なぜなら、〝祈りの中に知恵を求め…、若い時からその足跡に従い、そこに豊かな教えを見出した〟からです。(シラ51:13-16参照)
こうして、プラザーピオは、彼と同時代の人々にとって、まことの〝地の塩〟となり、そして今も尚、輝かしい、あかしである彼の模範に従おうとする人々にとっても、塩であり続けています。

このページのトップへ