マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 1月29日 年間第三木曜日

主は、わたしの道の光・・・(詩篇119・105)

集会祈願 いつくしみ深い父よ、あなたはわたしたちを選び、光の子としてくださいました。わたしたちが罪のやみに迷うことなく、いつも真理の光のうちに歩むことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。


第一朗読 ヘブライ人への手紙 (ヘブライ10・19~25)

 イエスは、垂れ幕、つまりご自分の肉を通って、新しい道をわたしたちのために開いてくださったのです。・・・真心から神に近づこうではありませんか?

答 唱  門よ 扉を開け 永遠の戸よ あがれ。 
         栄光の王が入る。(詩篇24)

 アレルヤ 主よ あなたのことばはわたしの道の光、
           わたしの足のともしび 

福 音  マルコによる福音 (マルコ 4・21~25)
 ともしびを持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか?

奉納祈願 全能の神よ あなたのことばに従って、この供え物をささげます。わたしたちがみ心にかなう者となり、いつもあなたの道を歩むことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって
。アーメン。

わたしは世の光である。 わたしに従う者はやみのうちに歩むことなく、いのちの光を持つ。

拝領祈願 喜びの源である神よ、いのちのパンにあずかったわたしたちを救いの喜びで満たし、真理の光のうちに導いてください。
 わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。
みことばと光の関係が言いあらわされています。雨宮神父の解説では「『わたし(主イエス)が自分のことばを灯として運んでくるのだ。だからあなたがたは、暗闇に輝く光としてそれを仰ぎながら生きていきなさい。』という熱い思いがこもっている」

 みことばは光であると・・・。 これは、第二バチカン公会議の教会憲章(教会に関する教義憲章)の最初の文言が印象的です。「諸国民の光(Lumen・・・)と表現しています。この光は、教会ではなく、イエスです。「キリストは諸国民の光であるから、聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げることによって(マルコ16・15)、教会の面上に輝くキリストの光をもっとすべての人を照らすことを切に望む。教会はキリストにおけるいわば秘跡・・・」神秘としての教会は、イエスを世の光として見たときに、その力を発揮する。神秘としての教会は月の明かりのように太陽の反射で輝く。すなわち教会はキリストによって生きていることを言い表す。

 昨日の司祭集会では、池長大司教様は、人となられたみことばについて、今年の「新生メッセージ」(時報 2009年1月号)を補足し説明する形で、ヨハネの福音15章のぶどうの木のたとえを通して、みことばにとどまる(つながるという訳では原語の意味を伝えない)ことによって、キリストの姿になるとの講話をされたのですが、そのなかで、みことばは「表現」という言葉で言い表されました。目に見えない神の表現(ことば)、受肉した言葉です。司教様のお話、ほとんど耳に残っていないので収録できないけれども、わたしの耳に残ったのは、「表現」という言葉でした。

第二バチカン公会議後の秘跡神学は、受肉の秘義を根拠に神学が発展しつつあるようです。

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