マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 霊操 (1)

霊操は、その漢字の意味にも出ているように、霊の体操ともいえます。それも、レクチオ・ディヴィナ(霊的読書)という方法を集大成したものです。"Lectio Divina"(聖なる読書) は、最近のシノドスでも取り上げられ、信徒の黙想にも利用されていますが、もともとは、観想修道会での典礼と深く結ばれてその日の聖書朗読された箇所の一語一句を修道者が記憶して労働の合間に口に上らせて祈った祈り方と理解しても間違いではなく、3世紀ごろのオリゲネスによってはじめられ、聖アウグスチヌスや多くの聖人たちによって発展させられ、聖ベネディクトに受け継がれてきたものです。聖イグナチオは、そのような伝統を「霊操」の中の第2週の「福音の観想」に取り入れて完成させました。それは、聖書的な「救いの歴史」の方法を自分自身に当てはめて福音書を黙想し、祈り、観想する方法として考案し、聖イグナチオ自身の神秘体験、父のみ旨を識別して知る神秘体験を伝えることを目的としました。30日間の集中的な「霊操」は、500年前にロヨラの聖イグナチオはを生涯をかけて練り上げたもので、今日でも修道会の年の黙想会にはこの方法が古典中の古典として使われています。

レクチオ・ディヴィナには、ある定番の定義がありますが、来住神父は、うろこシリーズの「聖書の読み方ーレクチオ・ディヴィナ入門」で、「聖書を非常にゆっくり読むこと」と述べています。確かにこれは、筋肉トレーニングに似ていて、ゆっくり筋肉を動かして筋肉にある程度の負荷をかけると、筋肉がつくという科学データをイメージするといいかもしれません。つまりみ言葉が肉となる方法です。
 ミラノの枢機卿、イエズス会士のカルロ・マルティーニ枢機卿の黙想会のテキストが日本語にいくつも訳されていますが、その多くは、このレクチオ・ディヴィナの方法使っています。「自分を知り、神を知る」(松本紘一訳、女子パウロ会)あるいは、マルコの福音書の霊的解説書「思い起し、物語れ」(シルヴァノ・ファウスティ著、佐久間勤訳、女子パウロ会)も、すばらしいレクチオ・ディヴィナの案内書です。この本は、かなり聖書学の研究成果も入り込んで、十分に黙想の糧になります。わたしも、この本を読んで、黙想会に利用したことが何度もあります。聖書をこのように読めたらなという一つの道しるべです。具体的な方法はまたの機会に掲載します。

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