マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 ラテラン教会の献堂(年間32主日) 祝日

 「力強い神よ、あなたは聖なる住まいにおられる。
 神こそ民に力と勝利を授けられる方。神の名に賛美(詩篇68・36)」

集会祈願 いつくしみ深い神よ、あなたは年ごとに、ラテラン教会の献堂を記念させてくださいます。あなたの家でいつも清いいけにえがささげられ、豊かな救いの恵みが与えられますように。
 聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。


 ことばの典礼

 第一朗読  エゼキエル 47章1-2節、8-9節、12節
 答  唱  詩篇 84 2+3、4、6+7  典礼聖歌 102 ①②③
 第二朗読  Ⅰコリント 3章9c-11、16-17節

 福  音  ヨハネ 2章 13-22 節
   イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことであった。

 共同祈願: 
 テーマ6 父である神の思いを生きる親たち
 「忠興様、何と仰せられようとも、わたしは決して転宗しません」

祈り: 人々を導いてくださる神よ、あなたは殉教を遂げた父親たちの模範をわたしたちに与え、家庭をとおして信仰に奉仕する者の姿を示してくださいます。一家の柱である父親が、家庭にあっても社会にあっても、その役割を意識し、信仰をもって使命を果たすめぐみをお与えください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン

説教ノート:
ショファイユの幼きイエズス修道会聖堂にて:
 前晩から黙想会に入り、早朝のミサは、その続きです。

 まず、黙想会にふさわしい聖書箇所であることに言及する。
(1)福音では、神殿を建て直すというイエスの言葉は、この神殿が、御自分の体であることだったと、イエスの死者のなからの復活によって弟子が悟ったことが記されている。神殿を商売の家にしてはならない。預言者の象徴行為として両替人たちを追い出す。これはイエスを訴える証言となった。(マタイ26:61)三日で立て直すことができる。イエスの死と復活の三日間をへて、神の霊(聖霊)がわたしたちに注がれ、罪のゆるし(和解)と神の子とする聖霊(イエスの霊=聖霊の現存)が与えられる。それはわたしたちをキリストの体、神の神殿とすることなのです。(Ⅰコリント3章16節)
(2)水と火のイメージは聖霊がわたしたちの心のよどみを清めるシンボルに使われます。エゼキエルでは、神殿の敷居の下から湧き上がって流れでて、この水が流れるところでは、水がきれいになる。パウロでは、朗読箇所の除外された部分(Ⅰコリント3章12~15)には、土台の上に立てた家がかの日には火がともに現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものか吟味されるからです。火は焼き尽くす裁きのシンボルと同時に清めのシンボルです。聖霊の働きが水と火のシンボルによってあらわされますが、それは、わたしたちの心を清め聖化するイメージにふさわしいでと思います。 
(3)黙想会のはじめには、聖霊を願い求めましょう。この聖霊の働きには、聖化する働きと愛の奉仕の賜物の授与があり、教会の伝統の中で、洗礼と堅信の二つの秘跡が定めてあります。秘跡として一回限りですが、その恵みを深めるために更新することが必要です。聖霊は、与えることのできる「もの」ではなく、神のペルソナですから、人と人との交わりのように、機会あるごとに願うならば、交わりを深めていくことができるのです。
(4)人間的な方法、人間の協力することは、たとえば心を整理することができるでしょう。フォーカシングというテクニックがあります。その中で、"Clearing a space" (空間をきれいにする=心の整理と訳されます)という方法ですが、空白の紙を用意して、自分を真ん中に書き、今、何か気になっていること、困っていることを。自分に聞いてみて、浮かんだこと、気持ちがあったら、それをひとつ紙のどこかに置くような感じで書く。。。いろいろな気持や感覚を書いていいって、後でそれに名前をつけていく・・・そんなことをしているとだんだん自分の心が整理されてきて、一番困っていることや今はすこし置いておいてもいいものなど、自分の気持ちに正直になるような時間ができます。そのような作業の中で 聖霊が働いてくださる。愛と慈しみの霊が働いて 自分に優しく人にも優しい気持ちがわいてくるでしょう。・・・
(5)わたしは、この黙想会に来る前に、部屋中に散らかっている本を整理しながら、あれこれ分類したりして、箱に入れたり出したりしながら部屋はきれいになりました。でも時間が無かったので、何を話すのか、その準備はできませんでした。車の中に一杯本を積み込んできました。皆さんのお祈りをお願いします。
(6)また、昨年も100日共同祈願を持ってきましたが、今年も持ってきました。これが5回目で、多くの信者さんの日々の祈りがキリストの奉献にあわせてささげます。いままで毎日ミサに行かなかった人も行くようになったという喜びの手紙もいただきました。どうぞみなさまも合わせて祈ってください。

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