マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 第26主日 A 年

第26主日 A 年

集会祈願
 すべての人を正しい道に導かれる神よ、あなたは人々の思いをすべて知っておられます。
信仰の道を歩む私たちを支え、いつも神に心を向けて生きるものとしてください。聖霊の交わりのなかで、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン

第一朗読:エゼキエル 18章25節~28節
    悪人が自分の行った悪から離れるなら、彼は自分の命を救うことになる。
第二朗読:フィリピ 2章1節~11節
    キリスト・イエスにも見られることを、互いに心がけなさい。
福音 :マタイ 21章28節~32節
   兄は考え直して出かけた。
  徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。

注:
兄は考え直して出かけた。雨宮師の解説によれば、「考え直す」と訳された動詞<メタメロマイ>には二つの意味があり、1残念に思い、悔やむ、後悔する(マタイ27章3節)2考えを変える(ヘブ7章21節)、この箇所は2の意味で、第一朗読では「彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか23節」と「わたしは誰の死をも喜ばない 32節」を指摘して、神の心を知るならば、ユダのように後悔して死を選ぶことはなかったのではないかと~
説教ノート:

 イエス様のたとえには、人間の弱さ、エリートを自任する人の落とし穴のようなものを指摘されているように感じますね。ルカの放蕩息子のたとえ話では、兄がファリサイ派や律法学者の姿を反映していますが、マタイのたとえでは弟がファリザイ派や律法学者の姿を反映しています。放蕩息子のたとえ話では、弟が我にかえって父のもとに帰る姿が、今日のたとえ話では、兄が考え直して父の願いにこたえます。放蕩息子のたとえの兄は、弟が祝宴で迎えられたことに腹を立て、家に入ろうとしなかったが、今日の福音の弟は、私にお任せくださいというような自負があったが、神のみ旨を果たすことができませんでした。兄弟どちらにしても、父の心と一つになることが悲願です。

 第二朗読のフィリピ書には、父の心をご自身のものとして自らをへりくだり死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで従順であったキリストの姿が模範として、わたしたちのあるべき姿として、立ち返るべき姿として、キリストの弟子としてのあるべき姿として、パウロは諄諄としてをわたしたちに語りかけてくださるのです。
 
 今日、父の心を知らないこと、神を忘れている、神を不在を嘆いているのは、世に罪悪が、あるからだと言っていいのでは~神の苦しみ、キリストの悲しみと苦しみは悪に引き渡されている世をご自分に立ち返らせる嘆きのこころから生じました。かわいそうだ。アベルの血(無実の者の死)が土の中から神に叫んでいる。(創4:10)罪とは神を忘れ創造主を侮辱し、自分の儀を誇り兄弟を侮ることであろう。

 罪のことをわたしたちはあまり話さなくなりましたが、それゆえに現在の神不在の状況をより端的に表しているのです。たとえば、聖ジェンマは、会計のお手伝いをした時、計算に集中していて神の現存を忘れたことに非常に苦しみを感じたことが彼女の日記からわかります。私たちはそれを罪と感じないのに、一瞬でも神を忘れたことに対して彼女は非常な神への冒涜と感じたのでした。

 来週から(10月5日)から、日本の教会はペトロ岐部と187人殉教者列福をひかえ、ともに祈る7週間の準備の祈りの期間に入ります。列聖列福特別委員会の溝部高松教区司教は、小冊子の前書きの中で、現代へのメッセージとして、従来の「英雄感」よりも「今回、ペトロ岐部と187人殉教者の一つひとつの事例を思いめぐらすとき、単に信仰上の「英雄」という視点よりも、わたしたちの信仰についての生き方の意味を浮き彫りにした点は、信仰、希望、愛。信仰として、神の存在の確かさ、信仰の対象としてのおかたの存在、希望として、どんな境遇にあっても絶望しないでいたこと、そしてかけがい愛、殉教者の友としてのイエスの愛、十字架上のイエスはすべての人のために祈りました。イエスを仰ぎながら殉教者たちは偽政者、迫害者すべての人のために祈りながら死んでいきました。 「最期まで御父への信頼を失わず、極刑のもとで味わう、人間としての苦痛、神からさえ捨てられたかのような苦悩を味わう中でイエスが徹底的に示したものは、信仰と希望、そして愛でした。その時、不信と絶望、そして無関心をあおる悪魔の力は永遠の敗北を期したのです。」(小冊子 11ペ-ジ)

 これらは、十字架のあがないの死に結ばれて悲惨な状況の上に世に命をもたらす聖霊が到来することになります。復活の栄光が殉教者たちに与えられるのです。

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