マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 死者の日

日記:
死者の日、この日は、多忙です。三田のヨセフ寮での亡くなった園生及び家族の追悼ミサ(午前)、御受難会男女の合同慰霊祭(午後)、高齢者の家訪問、命日のご家族への慰問、そして夜は、日生中央教会の死者のためのミサ(納骨されたご家族 36家族の合同慰霊ミサ)、そして夜の祈りと相談、池田教会へは夜の10時に帰宅、伝言を読み、パソコンに向かう。メールの返事を書き、ブログに書き込む。朝6時から真夜中1時までずっと起きている。睡眠時間は毎日5時間弱。超過勤務だな・・・司祭の仕事は能率よくはできない。つまり生産性と無縁の世界。長時間働いたとしても疲労しない。労働基準局の監督の下にはない。マイペース、マイペース。あせらずに前に進む。自己管理。勤務時間はあってないようなものなの。勤務評価は、天に召されてからしかわからない。雇われ人でも雇い主は目に見えぬお方なのだ。もっとも本人は分かるのだが・・・これではだめだということが。とにかくなんとかなるという希望的観測のうちに前に進む。

黙想:
 聖ビアンネは司祭、主任司祭の模範として保護の聖人になっているが、それは司祭の労働の規範となっている。彼は住まいを教会堂に定め、粗末な食事をし、16時間告解室にへばりついて信者の罪を聞いた。これは労働者の労働よりも苛酷である。この牢獄から3度聖ビアンネは逃亡した。しかし、厭で逃げ出したのではなく、この聖務にふさわしくない無価値な自分を取り除くためでした。そしてこの聖務が彼の体力を弱め命を奪いました。この英雄的行為のために彼は聖人になったのではなく、預言者のように神への熱い愛をあかしした結果のためでした。彼は単純に教会の教えを述べた。「この世では、神の望みにかなったしるしなしには、神について経験することはありません」確かに、しるしなしでは決して神を体験することはできない。ただ、人はしるしの中でのみ神を見いだせると誤解しそれを獲得することに熱心になる。しるしを目的化してしまうのだ。これが危険な道になる。聖ビアンネは、しるしが手段にすぎないことを教えた。その背後の神秘に目を向けることを教えた。「聖体拝領 神の三つのペルソナはこの魂の内に住みます。それは小さな天国です。」福者に列福されたとき彼の心臓は取り出して飾られました。その熱い心は、ビアンネを聖人にした。だから、その心臓はみ心の目に見える熱い心のしるしであって、目的ではないとわかる。(写真は現地に行くことができれば・・・)今の時代は、ゆるしの秘跡を受ける人は激減し、魂の病を吟味し処方箋を書く司祭の役割がなくなって、霊的な病が蔓延することになる。つまり、神のあわれみといつくしみを知らない信仰者が増えた。

御受難会男子女子合同慰霊祭 (11月2日午後2時、売布 カルワリオ墓地)

毎週墓地に花を飾ってくださる磯村美代子さんと一緒に、
 「いずれ私もこの墓地でお世話になります。」と私。磯村 
これは軽い冗談でなく本当のことだが、墓地では口にしやすかった。

Br.笹田さんのお父さん(熊本からこの日の墓参のために)笹田父

ミサ(司式 山内十束、説教 ウォード、 挨拶 雲田院長 )
この日は観想修道院の女子会員も一緒に祈りをささげました。
女子1 女子2 女子3

ウォード神父 そして雲田助祭、鹿山ブラザー
Ward1 kumo 準備

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