マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 年間第12主日

ヨブ 38章 1、8-11 節
Ⅱコリント 5章 14-17節
マルコ  4章33-41節

ことばの典礼: 朗読のあらすじ

 「なぜ怖がるのか? まだ信じないのか?」
 今年もイエスの死と復活の過越しの神秘を祝う典礼季節、四旬節、聖なる三日間、そして復活節、聖霊降臨、三位一体、聖体とイエスの神秘を祝った後の年間の主日、信仰のまとめのような今日のみことばです。

 
説教ノート:
 ヨブのように神の掟を守り正しい生活をしている者にも災難があり、禍にさいなまれることがある。かえって罪を犯している者がしあわせを謳歌しているのではないか、これは悪魔のいざなう声で、信仰者の心にねたみを植え付ける。一方、神を信じると自認する友人たちは、このような災難に遭うのは神に罪を犯しているのではないかと疑い、ヨブは罪に覚えがないという。ただ神は正しい者を正しく受け入れてくださらなくなったのではないか不満を述べるヨブ・・・故なく、苦しむヨブの痛みを友人たちは慰めることができず、却って溝を広げる。ヨブは孤独の中で「わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す(16章20節)」と、自分を理解してくださる方は神しかないと確信する。神はこのヨブの信頼に応えて語られる。(雨宮慧「主日の聖書解説 <B年>」p191参照)

 「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった・・・(38章1節)
 
 この方は、第二朗読で、パウロは、復活されたイエス、わたしたちの罪のために死んでくださった方、そう、わたしの苦しみを共に担ってくださる方がいる。その方のために生きることが自分の生きる目的となる。このように、わたしたちはキリストによって新しく創造されたものなのです。「キリストの愛がわたしを駆り立てる」と・・・私たちの内には、復活された方、イエスが生きておられるのです。イグナチオロヨラの霊操の第一週の初めに、「根源と礎」が黙想の基本に置かれている。「人間は創造されつつある」(門脇訳 岩波文庫)救いの業により新しく創造されたわたしたちの生き方を方向づける言葉です。聖霊との協働によりわたしたちはもう一人のキリストのように作り変えられるはず。だがそうは信者の生活がなっていないところに不信仰の疼きが残っているのだろう。福音はそれを払拭するように語りかける。

 マルコの福音は、イエスの神秘を、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と信じることによって目が開かれるような、目に見えない神の目に見える神の似姿として告知する。偶像からの解放のために神はご自身の似姿(神の像)をわたしたちに与えてくださった。神の子、主イエス、キリスト。この方のほかに救いの道はないと・・・嵐を静めるイエスの業に何の疑いがあろうか。この方のことばとしるしに神が働いておられる。そしてこの方は、ヨナのしるししかこの罪深い世には与えられないと宣言された。

 

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