マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 第三主日 古屋教会(和歌山市内)

四旬節黙想会指導のため古屋教会(土・日)に出張奉仕に出かけました。

 屋形町教会から古屋教会へ移動して・・・古屋01
 コロンバン会信徒宣教師たち(中国と韓国から二人来ています)
 わたしは黙想会直前の緊張した面持ちです。あまりの多忙で黙想会の準備は一切できませんでしたので出たとこ勝負、皆さまの祈りを願いました。おかげで無事に黙想会を終えることができました。お祈りで支えてくださった方々に感謝申し上げます。

 黙想会 (古屋教会)
 14日  7時半 ~ ミサと説教 -A
     8時半   講話 (1)
     9時    懇親会

 15日  9時15分  十字架の道行
     9時半   ミサ 黙想会説教 -B
    11時~12時  講話 (2)  
    12時~13時  昼食と懇談
    13時~13時半 講話 (3)
13時半    聖体の前での祈りと良心の糾明
    14時~    個別のゆるしの秘跡
    15時     結びの賛美と祈り(解散)

黙想会の主題:「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。」 十字架の栄光ー神の隠された知恵(ミュステリオン=秘義)―(第二バチカン公会議の受肉論的秘跡論に基づく祈りと信仰からヒントを得て)


 朗読箇所は、第三主日の朗読箇所をそのまま使いました。

 第一朗読  出エジプト記 20章1-17節
 第二朗読  コリントの教会への手紙(Ⅰコリント1:22-25)
 福  音  ヨハネによる福音 (2章13-25節)

二日間の黙想の要旨:
 四旬節は洗礼志願者とともに洗礼の記念を行い、新しく迎える兄弟を共同体全体で準備する・・・今回の主日の朗読箇所は、黙想会に大変良いヒントを与えてくれました。十字架の像のことです。四旬節は、灰の水曜日から聖木曜日の夕べの典礼の直前までの期間を言いますが、夕べのミサから聖なる過越の三日間が始まります。その真ん中の日に、聖金曜日があり、十字架の礼拝が行われます。わたしたちは、この像を拝んでいるのでしょうか?この黙想会では、秘跡の意味と秘跡的な生き方が「ご自分の体=キリストの体」に建て直されることを意識できるように考えてみました。秘跡を見直すことによって日常生活の中に神の働きを見ることができるのでは・・・
黙想会の説教の原稿がないため再現することは難しいのであきらめますが・・・背景になる考えと参考文献箇所の情報を公開しておきます。すべての人の知恵を集めましょう。


 
 説教 A
 46年という数字と3という数字、面白いですね。この四旬節の期間が40日ではなく灰の水曜日から聖土曜日までを数えると46日間あります。そして聖なる三日間の過越の典礼がその数字の中に重なります。伝統的に日曜日は断食しなかったので、6日間の主日を引くと実質40日になるとだけ依然は受けとめてそり以上のことは考えたこともありませんでしたが、今日の福音と重ねて読むと、古い旧約の神殿と新しいキリストの神殿を象徴しているように思えました。新しい気づきです。古い律法の神殿と新しい聖霊の神殿を対比して、洗礼志願者と共に古い自分が死に、新しい自分が誕生すること、これがご自分の体、キリストの教会の誕生のためにどうしても必要なことなのだと考えてみるように・・・促されました。

ポイント 1a 第一朗読が十戒について語っていますが、この「第二戒のいかなる像も造ってはならない」と十字架の像について考えてみることにしました。

ポイント 1b 話のつなぎとしては、第二朗読の「十字架のキリストを宣べ伝える」こと、これはパウロの栄光の主との出会いによって悟った秘義(ミュステリオン)についてです。サウロにとっては、キリスト者たちは第二戒の掟を破る異端者としか考えられず、キリスト者を捕まえて迫害しました。「殺すことさえした」と述べています。(使徒22章4節)この解釈で、最近販売されているDVD「ローマ帝国に朝鮮した男ーパウロ」では、美しの門で足がいやされた人がいるが、映画の中ではパウロは彼を殺します。それが彼の生涯の苦しみとなっていたと考えるとキリスト教のメッセージは強烈だが人情もののストーリで、その罪がイエスに赦されたとすれば、理解しやすいし同感する人もいるでしょうが、それでは回心して異邦人の使徒となった動機としては弱いのではないでしょうか?

ポイント 1c サウロがキリスト者を迫害した理由は何でしょうか? キリスト者たちは、イエスを「主」と告白していました。それはイエスを神と呼ぶことに等しいのです。キリスト者たちが、復活されたイエスをこう呼ぶようになったのです。イエスは主であり、この方がキリスト(油注がれた方)であり、イスラエルが待ち望んでいた救い主なのだと信仰告白していたのです。イエスのみ名によっての「み名」は「主」の名のことです。「主」は歴史の主であり宇宙創造の主であり、わたしのために死んでくださる主です。いのちの恩人なのです。日本の司教団は、教皇庁の指導で、ヤーウェを「主」と表記するように決定しました。単に名前を発音することがユダヤ教に対する侮辱や伝統に反するということだけでなく、イエスが受肉した神の子であることを告白し、その方が十字架で死に、葬られ、復活されたことを告白することなのです。これはユダヤ教からは許されないことでした。完全に律法の違反であり、呪われた者の死を受けねばなりませんでした。サウロはそのすべてに賛成し、ステファノの殺害に加担しました。「義」のためでした。

 1d  生粋のユダヤ人でファリサイ派で律法において非の打ちどころのないサウロにとって許し難いことだった(フィリピ3章)。しかしダマスコの道の途上で復活されたイエスに出会い、「サウロ、サウロ なぜ私を迫害するのか」と声を聞いて目が見えなくなる体験、そして案手と洗礼によって目が見えるようになる。この個人的な体験が、これまで誇りとしていたことがすべて塵芥にしか過ぎないものとなってしまう。
 

 講話 1

 この黙想会では、「秘跡」という概念を、新しい秘跡論、受肉的なアプローチ(第二バチカン公会議以降の典礼や秘跡の理解に使われるようになったアプローチ)を皆様に紹介したいと思っています。
「秘跡」は、ご自分の身体性(人性)という目に見えるしるしにおいて人々を父である神に出会わせ、救いに導かれる方をしめす言葉です。新約聖書のギリシャ語ではミュステリオン(秘義)という言葉が使われ、ラテン語になってサクラメント(秘跡)とミステリウム(秘義)の二通りに使われるようになりました。「秘跡」という概念は教会での特別な儀式を表すことばとして使われ、他の宗教の秘義とは区別する仕方で使われ、ミステリウムは使われず、アウグスティヌスから、目に見えない恵みの目に見える感覚的効果的しるしをサクラメント(秘跡)というように考えられました。中世になるともっと厳密な定義が出てきて質量と形相、しるしとことばによる秘跡の定義を発展させています。それも何もかもが神のしるしになるのではなくて、「キリストが7つの秘跡を制定したことよって」と限定するのです。ところがアウグスティヌス以前あるいは同時代の教父たちは、アウグスティヌスを含めてもっと受肉的なとらえ方をしていました。「受肉」とは、教父たちの考えでは、「神の子が人間となる」ことが秘義であり、「受肉ー神化」ということは、人間が神になるということではなく、「神の恵みによって神のようになる」ということを言っています。(このことは、「救いと恵みのミュステリオン」-秘跡の神学と教会の活性化― 佐久間勤 編著 サンパウロ社 に収められている手塚奈々子先生の記事「教父たちの秘義理解」からヒントを得ています。)

 

 

 ここから 十字架のなかにパウロの信仰の理解のエッセンスが生み出されてくる。・・・ (時間がないのでここまで)
 


黙想会終了後の 安堵の顔 (信者さんたちと共に)
ゆるしの秘跡を手伝ってくださった竹内神父さんも一緒です。引退して現在屋形町教会で司牧協力者として活躍中です。

 古屋02

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