マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 1月30日 年間第三金曜日

主は来られる。天と地を呼び寄せ、民を裁かれる。(詩篇50・3+4)

集会祈願 全能の神よ、あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。罪から解放されたわたしたちがあなたの国を待ち望み、正義を行う者となることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともⅡ世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。


第一朗読 ヘブライ人への手紙 (ヘブライ10・32~39)
 だから自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束のものを受けるためには忍耐が必要なのです。

答 唱  喜びに心をはずませ、救いの泉から水をくむ 
                   (詩篇37・3,4)典166

アレルヤ アレルヤ 天と地の主である父はたたえられますように。
あなたは神の国のことを小さい人々にあらわしてくださった。アレルヤ アレルヤ

福 音  マルコによる福音 (マルコ 4・26~34)
 
「神の国を何にたとえようか? どのようなたとえで示そうか?
それはからし種のようなものである。・・・ イエスは人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえでみことばを語られた。


奉納祈願 全能の神よ わたしたちの祈りに耳を傾け、この供え物を受け入れてください。あなたをたたえて一人ひとりのささげるものが、すべての人の救いに役立つものとなりますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願 神よ 救いの秘跡の力によってわたしたちを悪への傾きから解放し、正しい行いに導いてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
黙想のポイント:
 「イエスは人々の聞く力に応じて たとえで語られた」
「人を見て法を説け」というのがあるのと似ているが・・・たとえで語られるのはしかし説得するためではない。拝領祈願で祈るように、「救いの秘跡の力」への信頼をもつためではないか? ヘブライ書の方では、自分の確信を最後までもつように、耐え忍ぶようにと励まされる。「正しい者は信仰によって生きる」主は確かに来られる。光に照らされて信仰に入った時のことを思いでしましょう。何と、あなたは苦しい大きな戦いによく耐えたことでしょう。あなたは信仰によっていのちを確保する者です。このように励まされる。

 救いの秘跡の力は、イエスの死と復活がその根源にあります。これにより神の霊<いのちを与える聖霊>信ずる者に与えられる約束が福音であり救いです。神の霊、聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれた(ロマ5・5b)のです。この神の子とする霊によって「アバ、父よ」と呼ぶこと(ロマ8・15)ができるのです。イエスの死と復活のしるしあがあるところ、つまり十字架のしるしのあるところ<霊>は働くです。十字架を切ること、それは単なるジェスチャではない。秘跡的なしるしであることを思い起こそうではありませんか?そして、わたしたちの生活全体が十字架のしるしを帯びていることを思い出しましょう。他者の命となることを思うと やはり忍耐 ヘブライ書のことばが生きてきます。

 さて、1月の典礼の流れを振り返ると、降誕節で、みことばが人となられたことの神秘を祝い、古代の教父たちの祝日を祝った。それらはまさに啓示の光で照らされなければならない神秘でした。4世紀のこと、アレキサンドリアの司祭アレイオスの主張、御子は被造物で永遠の方ではないということ。キリスト教迫害が終わった325年、ニケア公会議が開かれ、アレイオス派の異端がキリストの神性を否定したのにたいして、御子キリストは御父と同一本質(ホモウシアス)であるとの教義を決定した。そして、次に聖霊の神性を否定する考えがでてきたので、これに対してもカパドキアの三教父ー1月2日の典礼記念日 聖バジリオとナジアンズの聖グレゴリオ、と二ッサの聖グレゴリオーは三位一体の神学を完成させた。ミサで正統信仰の要諦として信条を唱えるとき、この歴史が思い返される。ニケア公会議で御子が、コンスタンチノープル公会議(381年)で聖霊に関する信仰箇条が付け加えられた。これが、ニケアコンスタンチノープル信条です。「主にしていのちの与えぬし、父から発出し、父と子と共に礼拝され栄光を帰され、預言者を通して語られた方」。
 今もあかしの力を注ぐ方です。聖霊 来てください! 
 

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