マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 1月3日 イエスのみ名の記念日

み子が現れるとき私たちはみ子に似たものとなることを知っています。(使徒ヨハネ手紙 Ⅰ 2章29~3章6節)

集会祈願 全能永遠の神よ あなたは、ひとり子の誕生によって世に新しい光を注いでくださいました。おとめマリアからお生まれになった救い主に結ばれて、わたしたちもあなたの国の栄光にあずかることができますように。聖霊の交わりの中で・・・

第一朗読 Ⅰヨハネ2章29~3章6節
答 唱  詩篇 98 
アレルヤ みことばが人となり、わたしたちのうちにお住みになった。主を受け入れる人には神の子となる恵みが与えられた。アレルヤ

福 音 ヨハネ 1章29~34節
 わたしはそれを見た。だからこの方こそ神の子であると証したのである。

黙想のポイント
奉納祈願には、「わたしたちがあなたにふさわしい礼拝をささげ」とあります。どういことでしょうか? 
 イエスのみ名の信心が今日の典礼では任意で祝われるようになりました。フィリピ2章10節の「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスのみ名にひざまずき」すべての舌が父なる神の光栄をあがめ、「イエスは主である」と言い表すこと・・・これは使徒の時代の信仰告白であった。キリスト論として何度も学ぶ必要のあるところです。典礼歴の説明では、イエスのみ名の信心は15世紀にシエナの聖ベルナルディノによって全教会に広まったという。このときの名はまさに「イエス」という名であった。「イエス、イエス」という名前を使って繰り返し唱える当時流行した祈りの言葉であったろう。しかし、使徒の時代の「イエスの名」とは「主」のことでキュリオス(アドナイ)、神聖四字の決して発音されることのない名の代わりに使われた主人の「主」のことです。これが古代からのイスラエルの神の名として特定され使われてきたのです。2001年に教皇ヨハネ・パウロ二世が任意の記念日として「主のみ名の信心」を復活させたとき、それは「キュリオス」のことなのか、どう考えたらいいのでしょうか? わたしは少なくとも戸惑いました。今回、教皇ベンディクト16世が典礼省をとおして勧告したことは、使徒たちの時代の信仰告白としての名のことだとはっきりと説明されたことは喜ばしい。
各国司教協議会にあてた手紙は次のURLでご覧ください。
 http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/yhwh.htm

復活されたイエスは、<主>としてあらゆるものに勝る力と権能を持っておられる。「イエスは主である」を逆転させて、「主はイエスである」といった場合、主語と述語は等価であるが、述語は主語の説明なので、福音のイエスの姿が神の似姿とは何ということだろうと理解することは含蓄のある実り豊かな黙想を約束する。「わたしを見たものは父を見たのだ」唯一神が許された神の像はイエスなのです。ちなみに、旧約のみ名の啓示と言われるか所は、出エジプトの34章6節です。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみとまこととの豊かな神」です。イエスはこの通りを実現されたのです。

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