マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 四旬節第三主日(奈良登美ヶ丘教会)

四旬節は黙想会シーズンです。各司祭はあちらこちらの教会へ共同回心式や黙想会の依頼を受けて奉仕に出かけます。ほとんど多忙な毎日に司祭もまた黙想のために立ち止まり自分の説教に耳を傾けます。自分が話していることを生きているのかどうかを?

 四旬節第三主日 2010年3月7日(日)
 
 『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされた。(出エジプト3.14)

 ルカによる福音(13.1-9)
 
 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 
畠神父の講話(要約)登美ヶ丘教会のホームページ掲載され今はバックナンバーの中におさめられています。たまには人がどう聞いたのか考えてみなければなりません。これはまったく原稿もなく何を話すかも話の筋が見えていなかったものを上手にまとめてくださったのです。感謝です。皆様ありがとうございます。

  登美ヶ丘01
ヨハネの福音書でイエス様は「私はある」とおっしゃっています。これは、あなた達のために私はいるという意味です。常に現存しておられます。イエス様は2000年前の過去の事ではなく、今ある私達のために、今触れて下さり、聖書を通して語りかけて下さいます。その言葉を信じて読みましょう。

   旧約聖書では、神様は影のような存在でした。そして、新約聖書では、イエス様を通して私達は命のようなものを知ります。神様の愛の計画をイエス様を通して知るのです。イエス様を通して洗礼の恵みを受け、イエス様によって人間の生き方が、ことばや目に見える姿になって現れました。「御言葉が肉になられた」つまり、御自身の似姿すべてを、御聖体というパンの形で私達に与えてくださいます。

   世界の出来事を見るとき、”偶然”、あるいは”必然”でそうなった、と感じることが一般にはあるのではないでしょうか。私たちが偶然生まれたとか、自然の出来事が必然に生じた、などです。罪を犯した結果事故にあった、たまたまそこにいたから事故にあった、など・・・。何事も原因と結果があると思うと、自然災害のような自分達を越えるものによって不幸になるとき、受けとめられなくなります。イエス様は彼らが悪い事をしたからとは言わず同じような事は誰にでも起こるとおっしゃいました。悪い事をしたからではなく、誰でも病気、交通事故などに遭うことがあるのです。

   世界中にある悪をどのように考えるべきなのか。”神様が悪を許したから不幸になった”と考えることは間違っています。イエス様は人類の悪を十字架でご自身のものとして受け入れられました。このことによって、悪を通して善を引き出すことができる、ということを神様ご自身が表されたのです。

   神様の計画は創世記から書かれています。人は神の似姿として作られました。人間性全体が神に似ています。最終的にはその似姿は、イエス様として表されました。今日の福音で「ぶどう園」は世界全体を示し、「園丁」は神様の国の協力者を表します。世界全体は神様と神様の協力者である人によってなるのです。今年の教皇様の平和のメッセージも、人間は人類全体に責任があるということが述べられています。

   私達は偶然で生まれたのでなければ、必然で生まれたわけではない。両親の愛を越える方の愛によって作られた。神様と私達の関係はとても深い。神様は人間という力ないものにご自身の意思を与えられて、この宇宙全体を治めるめるようゆだねられたのです。しかし、人間は時に誤って,支配すると考えたので、力あるものが、圧政していった。この世界全体は神様との協力によってできるのです。この世界を愛によっておつくりになった神様と。もし神様御自身が支配するおつもりなら、ロボットのような人間でも良かったのです。

   人間は、支配という力の権力ではなく、仕えるものにならなければいけない。神様は遠い方ではない。「わたしはある。あなた達のためにある」とおっしゃいます。そのことに私達はお答えしないとすれ違ってしまいます。

   私達は時に神様を恐れ多く思うあまり、顔と顔を合わせられず遠くなりがちです。直面するのが怖いのです。そしてあこがれるけれど自分のようなものがと思うのです。私達の祈りの生活の中で「我と汝」という、神様から素直に与えられたものを信じるようにしなければ、情報は伝わっても心は伝わりません。しかし 1つの理想でなかなかできません。それをしてくださったのがイエス様です。

   イエス様が私達のために御子の霊をそそいでくださったので、神様を父と呼べる。命のまじわりの中で聖霊の中に戴ける。原罪の罪から解放されて、神の子としての霊、キリストの霊を戴ける。神様と私達の関係が近づくのです。

   私は小学校4年生の時洗礼をうけました。6年生の頃、六甲教会から来られた神父様が四旬節の指導で河原町教会に来られました。それまでなかなかゆるしの秘跡に与れない私に神父様は「イエス様はあなたの親友です。親友なら何でも打ち明けられるでしょう。」とおっしゃられ、そのときから毎週1回ゆるしの秘跡に与るようになりました。私達は知らないうちに人を傷つけていることがあります。おこたりの罪、十分に尽くしていない罪、これは私達が知らぬ間に影響を与えている原罪から清められればどんなに素晴らしいことでしょう。(この部分、訂正加筆させていただきました。洗礼を受けたのは4年生の時で、ゆるしの秘跡をうけるきっかけが与えられたのが6年生のときです。それ以来大学卒業まで毎週一回はゆるしの秘跡を受けていました。畠)

   私達には過去があり、現在があり、未来があります。私達は自分の犯した罪を悔い改めなければいけない。そして今どうするかによって、将来どんな人となるかが決まって行きます。現在はとても大切です。「私はある」神様はいつも現在形。私達は今までの考え方では将来はないとわかっています。今日することが未来へつながります。現在の積み重ねが未来。時間のあるうちが大切。今行動をとりましょう。

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