マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 年間第13主日

ことばの典礼:

第一朗読 知恵 1章13節~15節 2章23節~24節
第二朗読 2コリント8章7、9、13~15節
福  音 マルコ 5章21節~43節


 この日、日生中央ではミサの前に「教会の祈り」の詩篇唱和を始めてしました。オルガンの伴奏による詩篇の朗唱は歌う人の心を賛美と平和の心で満たします。ミサのよい準備になります。また賛美の歌を心から共にささげましょう。

参考に「教会の祈りの総則」の中から
感謝の祭儀と教会の祈りの関係について収録:

 12項 主の晩餐の神秘は「キリストの教共同体の全生活の中心であり頂点である」が「教会の祈り」は、この感謝の祭儀をに含まれている賛美と感謝、救いの諸神秘の記念、懇願、天の栄光の先触れなどを一日のいろいろな時間にくり広げてゆく。
 「教会の祈り」は感謝の祭儀の効果を豊かに受けるために必要な心構え、たとえば信仰、希望、愛、熱心、犠牲の精神などを人々のうちに呼び起こし養うことによって、感謝の祭儀のすぐれた準備となる。
当日の説教実録(テープ起こしによる=小倉様)
タリタクム
6月28日 日生中央教会 年間第13主日

今日のマルコの福音書(5・21~24、35b~43)は、誰もがよく知っている非常に有名なところです。そして知恵の書(1・13~15、2・23~24)も、分かりやすいと言いますか、旧約聖書全体の信仰のまとめのようなものだと思います。

「生かすためにこそ、神は万物をお造りになった。神は人間をご自分の本性の似姿として、不滅の者として創造されたが、悪魔の妬みによって死がこの世に入った」と書いてあります。この「悪魔の妬み」というのが、何かこの世界全体の苦しみ、色んな事件の源にあるように思います。私たちが読む新聞の第一面から最後の記事まで、この世界の政治の権力闘争にしても、すべてが妬みから来ている。(ブログを見た人から、『この見方は図式的で偏向している。』との批判があったけれども・・・、聖書の語りは、神の前での人間という観点です。)現在、イランにおいても、民衆を抑圧するような体制があれば、必ずそれが問題の源にあるということなんです。

 今日の第二朗読(Ⅱコリント 8・7 9 13~15)では、その「妬みの克服」をうまく書いているのではないかと感じました。
「慈善の業」と書いてあるのは、恵み(カリス)という言葉から来ていますが、「正義と恵み」というのが、この言葉の背景にあるようです。
「あなた方の現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなた方の欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」
 私たちは、貧しいので何かもっとほしいという祈りになるのですが、この立場からいくと、私たちはすでに神さまの愛を豊かに受けてすべての点に豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となります。私たちが十分に神さまから愛されている、命をいただいているということに基いて祈りを捧げ、慈善の業をなすということなのだと思います。

この前、6月の初めに韓国のKKOTTONGNAE(お花の村)という所に行って来たのですが、そこのはじまりは、戦争中、日本軍に北海道の炭鉱に連れてこられたおじいさんがあまりの辛さに逃げようとした時、非常に悲惨な苦しみと気が触れるほどの拷問を受けて、精神状態もおかしくなってしまった。
そして戦争後、韓国に帰ると、自分の家も土地もすべて失われていた。本当にどん底に落とされたのですが、でも自分にはまだ物乞いをする力があるということに気がついた。朝鮮戦争で家を失った人が多くいた中で、自分よりももっと貧しい人、力がない人、特に知的障害者とか身体障害者などが道に捨てられていたわけですが、その人たち18人を集めて、彼らのために自分が物乞いをした。
ただ貧しいから物乞いをするというのではなく、自分より声も上げられない人のために何かをする。その姿を見た、赴任したばかりの若い王神父は、貧しい人のために働こうと思って司祭になったのに、この人はそれ以上のことをしていると心打たれ、自分が持っている1300ウオン(=1USD)のすべて使って、セメントを買って、その18人の家を建てるためにブロックを作り始めたのです。これがKKOTTONGNAEの始まりです。
 今、その村には四千人のホームレスだった人たちが住んでいて、身体障害者、知的障害者、高齢者を収容する一万人以上の大きな施設になっています。そしてそこに福祉大学を作り、若い人たちを鍛えて、実践の場として、その村は今、一つの大きなキリスト教王国になっていました。
日曜日にミサに与ったのですが、五万人のミサでした。120~130人くらいの神父さまがいましたが、ご聖体を配るだけでも30分くらいかかりました。
ラザロの話でも、そんなに苦しい所にいるのなら、誰か自分の親族を遣わしてくださいそしたら悔い改めるでしょうという話がありますけれども、とにかくこの貧しい人たちが自分の妬みを越えて祈る時、何か祈りが聞かれるようなことがあるのではないかと思います。

今日のマルコの福音書は会堂長は非常に裕福な人で、律法も守ってきた人ですが、イエスを迫害しようとするファリサイ派や律法学者の意見を抑えて、イエスさまを迎えてきたような人で、非常に義に富んだ人だったと思います。
その人が、イエスさまから神の力が溢れているということを認めて、祈っていただければ病は必ず癒されるという、その願いに答えて、イエスさまがヤイロの家に行こうとする途中、出血の女が近づきます。宗教的に汚れを持った人が聖なる方に近づくことは、許されないという社会状況の中で、出血が止まらず、汚れているとされている女が、イエスさまの衣にさえ触れれば癒されるという信仰を持って近づいてきます。イエスさまはご自分からは何かをしようと思われなかったのですが、でも、体からすっと力が出ていって女は癒された。だからイエスさまは、誰が触ったのかと捜された。
イエスさまは、苦しんでいる人、病気の人、罪びとの所へ向かって行かれるという立場なのですが、この人はイエスさまの後ろから近づいてきて触れた。そしてその衣に触れた途端、癒された。願いどおりになったということです。
貧しく、しかも社会的にも苦しめられていて、宗教的にも汚れた者ということで差別されてきた人が、イエスさまに触れると、病気が癒された。神さまの憐れみ、義というものがそこに表わされている気がします。

この方が癒されないなら、本当に神さまはいらっしゃらないのではないか、こんなに貧しく苦しくても頑張っているのに、何で報われないのだろうかと私たちは思うことがあります。
先週のヨブの話にしても、ヨブは全く正しい人で、神さまのことを悪く言ったことは一度もなかったのですが、でも慰めに来た三人友人はどこかに罪があったのではないか、病気をしたのは何か不正なことがあったのではないか。不正をすれば必ずその報いとして病気とか死がくるのだとヨブを責めます。でもヨブはやはり、神さまに正しいことをずっと捧げてきたのに、自分の息子や娘が奪われ、財産も奪われてしまった。友人達に対しれ、「違う。正しい人に対する神さまの扱い方が変わったのではないか」と反論します。そのような苦しみの時に彼は、ついに、神のみが私を理解してくれる。神は私の友だと悟るのです。(ヨブ16章20節)

 ラザロのような、あるいはヨブのような体験から、潰されてしまって反逆する人や、神はいないと怒る人もいますが、でもそうではなく、本当に苦しんでいる人の苦しみに近づくとき、そこに神さまが共におられる。わたしは共にいるというその姿、ヨブのその期待は、イエスさまの十字架と復活によって実現していくのです。
イエスさまは、ご自身の復活の命をもって、今、私たちに近づいておられるのですが、それはどうしてかといえば、苦しみを通して、本当に苦しむ者、一番惨めな抑圧された者の姿に連帯し、同一化し、自らの命を与えてくださった神の憐れみによって、私たちに命を与えるという第一朗読(知恵の書1・13~15、2・23~24)の姿が、はっきりと私たちに示されたからだと思います。
このような形で、この出血の女の人に対しても、イエスさまはその正義を表わされたのです。

そしてその後、「ヤイロの娘は死んでしまったので、もう来なくてもいい」と使いがきたのですが、でも「恐れることはない。ただ信じなさい」と、イエスさまは言われる。死をも越える力、それは神でしかありえないのですが、イエスさまにおいて、その力と神秘が現わされ、慈しみと憐れみ、正義が実現します。 
イエスさまは子どもの手を取って、「タリタクム」と言われます。それは、「娘よ元気を出しなさい」復活の「起きなさい」と同じ言葉ですが、それは私たちがもう諦めきっていたところに、希望というものを呼びかけた言葉だと思います。

私たちの不信仰は、初めからこうならないだろうと思うことが多いということです。でも、必ず神さまは正しいことをなさる方だ。命を与える方だ。そして義を私たちにもたらす方だという信仰の思いをもって私たちが触れるとき、癒しの恵みが行われるのだと思うのです。
最近、私が思うことは、貧しい人の祈りを通して、何かそれは叶えられるということです。先ほどもバランスが取れるという話がありましたが、富める人には信仰がなく、貧しい人には信仰があるという意味ではなく、貧しい人も富める人も同じ信仰の立場ですけれども、でも、その妬みを越えるということが双方に必要なことなのです。
富んでいる人に対する妬みが階級闘争になり、悪く行くと社会を破壊することにもなりますが、神さまは愛そのものなので、やはりこの妬みを乗り越えることにおいて、私たちが新しい力を復活の命をもたらすという約束をされたということです。ヨブが友人たちのために祈った時、主はヨブを元の境遇に戻し、皿に財産を二倍にされ、以前にも増して祝福されたと聖書に書かれています。
イエスさまの十字架の死を通して、いかなる憎しみの心もイエスさまから溢れてこないわけです。この世界に命を与えるというただそれだけのために、ご自身を委ねておられた。そのためにすべての祝福の源となりました。
妬みを越えるということは難しいのですが、でも私たちは、無からすべてを神さまからいただいたものなんだ。自分の持っているものが自分のものだと思わないで、他者と分かち合うものだと理解できたとき、本当に自分の物を分かち与えることができる。そしてそれは本当に、私たちが与っているミサの意味だと思います。
イエスさまは、ご自身の命をパンという形で与えている。その命を与えられている私たちは、自分の命を他者に与えることも惜しくない。頂いた命を与えれば与えるほど豊かになる。神さまの命につながるということです。それが5千人のパンを増やすことだと思います。

KKOTTONGNAEという所は、財源がどうなっているのか、色々と質問したのですが、一人に一ドルの寄付しか要求しないのです。でも、たった一ドルではあっても、韓国の100万人の人が献金していると聞きました、だから一ヵ月一ドルだけでも、100万人の人がいると、一億円くらいになります。凄いなと思ったのですが、私たちの小さな力でも、本当にタリタクム、諦めないということです。諦めないでイエスさまの命に触れるときに、私たちは豊かにされるということを覚えて、また祈りを捧げましょう。











 

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