マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 第四主日  B年 3月22日 日生中央黙想会

3月22日 日生中央教会 四旬節黙想会

「神は独り子を与えるほど世を愛された。」

*三つの朗読の主要なテーマは、「信じること(信仰)」です。ニコデモが夜、イエスのもとを訪ねましたが、彼は真理の光を求めてイエスを探し求める洗礼志願者の象徴となっています。わたしたちの共同体に迎える洗礼志願者のために祈りましょう。この黙想会を通してわたしたちのいただいた信仰を生きる恵みと力を祈り求めましょう。

第一朗読 歴代誌下36章14-16、19-23
詩篇   典 28 詩篇137:1+2、 3+4、5+6
第二朗読 エフェソの教会への手紙 2:4-10

福音   ヨハネの福音 (ヨハネ3・14-21)

 「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じないからである」・・・「真理を行う者は光の方に来る」今日も、黙想会と主日の説教の準備ができないままに話さなければならないことになり、大変申し訳ありませんでした。かつて神学生の時代、東京教区の山本量太郎神父さんが神学校の説教の授業に来られたことがあり、小教区の説教の準備ができなくなったら、もう神父は終わりだと考えた方がいいですと言っておられたことを実感する瞬間でした。毎日のスケジュールがいっぱいで睡眠不足で頭はぼんやりしている。どうしよう。一番大切な霊的な糧を皆さんに提供する日に何も準備できないとお詫びしながら朗読を聞いていると、主がわたしを満たしてくださる感じがしました。聖霊の賜物が下ってきました。天の力を得て、いつものよう冷静に説教を始めることができました。神に感謝!

四旬節黙想会スケジュール

 9:00 主日のミサ  畠
10:30 講話     畠
11:30 ゆるしの秘跡 ウォード神父、松本神父、畠神父の三名の奉仕
12:30 終了
 今回も黙想会での説教を再現することはできません。
以下は、思い出しながら加筆しています。

「信じることは神の賜物です。(エフェソの手紙)私たちの不信仰の世界に光をもたらす力、それは十字架です。「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子も上げられねばならない。」十字架は信じることのしるし、シンボルとしてイエスはこの十字架に新しい力を与えるのです。
 
 かつて楽園では神と人、人と人とが調和のうちに平和に暮らしていましたが、あの試みるもの、二枚舌のサタンがささやきます。本当に神様は園のどの木からも食べてはいけないと言ったのですか? この言葉が女の心に疑いを生み、それを否定するかのように神が言われていない言葉を付け加えて答える。死ぬといけないから・・・サタンは、死ぬことはない。それを食べると目が開け神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。この神への疑いの心がいわゆる原罪の本質と言ってもよいでしょう。

 聖書の原初の物語は、聖書が書かれた当時も現在も同じ問題、この世界の分裂と不和などの諸悪の根源に、「疑い」それも神への疑いから神との隔たり、人と人との隔たり、そして自分との隔たりが生じてくることを指摘しています。
 
 現代の世界の問題などにもそれはみられます。日本の政治不信、はたまた北朝鮮の見え見えの政治的駆け引き、ほとんど問題が分かっていても、あの国はすべてを政治的な駆け引きに使って自国を有利にして、自分の政権を安定させることさえするわけです。しかし、それは力の政治力学として大国の政治を支配しているもので、イラン戦争も、ブッシュ大統領とフセイン大統領の駆け引き、お互い悪魔といいあう、そして神の名による正義の戦いを引き合いに出して不正な戦争を始めたのでした。苦しんだの武器を持たない子供や市民で、いまも苦しんでいます。しかしそのようにソマリア、パレスチナ、グルジア、などなどさまざまな紛争の状況をわたしたちがニュースとして知って、それをただ観客のように見るということはできません。

 そのすべての問題に、同じ「疑い」があり、不信仰の世界があるからです。聖書の物語の展開は、疑いから兄弟殺しが始まり、疑いから争いがおこり、自分を守るために、しるしを必要とするようになったのでした。そのしるしは、力や権力や快楽です。歴史的には、イスラエルに王国が生まれてきました。そして目に見えない神を礼拝するよりは、目に見える力のシンボルを礼拝するようになります。つまり偶像礼拝が生じるのでした。偶像礼拝の結果は国の分裂であり他国への隷属でした。

 今日の第一朗読は、捕囚を体験したユダヤ王国の歴史伝承を収録した聖書の箇所で、祭司伝承による歴代誌とよばれ、もう一つは捕囚までの申命記伝承ですが、捕囚の体験は、偶像礼拝の結果天罰が下り神殿が破壊され、他国へ移住させられたことでしたが、この捕囚の期間を、「安息」ということばで表現しているのです。(申命記伝承では罰として表現)他国の帝国支配者ペルシャのキュロス王により神殿の再建を命じられるところで終わります。偶像礼拝が諸悪を招いたのですが、神はその期間を清めの期間とされたのです。イスラエルにとって信仰の危機の時代でしたが、この時代について、優れた預言者たち、イザヤ、エゼキエル、エレミヤが神の言葉を告げ、この苦難の時を解釈し、神に立ち帰る悔い改めと解放と救いの約束を述べたのです。

 苦しみにおいて神はご自身をあらわされる。神は憐れみと慈しみの方なのです。それは、本当です。ところがそれをわたしたちはそれを信じきれない。あるいは恨むということがあります。神がおられるのなら、なぜすぐに助けに来てくれないのか? 目に見えない神を信じることは、人間には何らかの保証がないと信じられないのです。人間は目に見えるしるし、事象的な事柄の中で見えない神の力を見る(経験する)ことが必要なのです。

 ところで、モーセが荒野で蛇の青銅の像を掲げて民を救ったというのは、偶像礼拝の禁止令を知る私たちにはわかりにくいことで、何か異教の宗教の影響を感じるのです。そして、私たちは、聖金曜日に十字架の礼拝をおこないます。教会の典礼委員会などで、「礼拝」はだめだ、「崇敬」と書かなければと書き換える人もいますが、典礼式文では「礼拝」となっています。この「礼拝」と「崇敬」の区別は、古代の教会会議で論議されておりました。幾分脱線しますが、「教父たちの秘義理解」(手塚奈々子、「救いの恵みのミュステリオン」所収P177~181参照 サンパウロ)の記事は役に立ちます。この記事の中で、教父たちが「受肉の神秘」の理解を深めることによって種々の異端と戦ったことが書かれています。十字架像と関連する点を言えば、5世紀ごろからイコンを使って祈る方法が流布しました。文字を読めない人に信仰の神秘を説明するのに助けになるということで黙認されていましたが、8世紀に、イコノクラスム(聖画像破壊運動)立ち起こり、これについて教会の立場を表明しなければなりませんでした。このときに活躍した教父は、ダマスコのヨアンネスというイスラム圏で育った教父で、イコンで祈ることを擁護しました。彼の立場は、「受肉論」と「礼拝と崇敬の区別」の二点を論拠としています。第一の点は、つまり、第二戒を根拠にしてイコン反対論を展開する人に対して、オイコノミア(神の救いの営み)が変わったのだと主張しました。「神が受肉されたのちには、神は人間世界のものを取られ、世界のものはいわば神の場となったのだから人間世界のものを用いて神を描くことはむしろ当然なことである」と展開したのです。神が人間となったのであれば、本当にそれを信じるなら、人間のことばとイメージで表現できるのではないかと・・・そして、第二の点では、「イコンを用いて神に祈っている人は、そのイコンが想起させる神を礼拝しているのであって、イコンそのものを神としているのではない。しかしイコンは神をあらわす場になっているのだから、特別な尊敬、崇敬に値する」と・・・「踏み絵」を強いられた人は、それが神だとは思っていないとしても、尊敬の対象をあらわす絵を踏むことができなかった。「沈黙」のロドリゲスは、踏んでいいんだと声が聞こえたという。確かに多くのキリシタンは踏んで生き延びたのでしたが、踏めなかった人もいるのです。それは神の表現ですら信仰の対象だったからです。ダマスコのヨアンネスの意見は、第七回公会議教義決議文書(787年)に採択されました。「教会の伝承にしたがって、・・・生命を与えるべき十字架の像とまったく同じように、尊敬すべき聖画像を飾らなければならない。・・・すなわち、われわれの主であり神である救い主イエス・キリスト、聖にしてけがれなき神の母、聖なる天使たち、すべての聖人たちの聖画像を飾るのである。(DS600)・・・これは神だけに捧げる真の礼拝ではなく、昔からの慣習に従って、これらの聖像に香や灯明をささげて尊敬するのである。(DS601)」これがカトリック教会にいっぱいある聖画像なのです。

 ※余談(かなり横道にそれましたが、第二バチカン公会議を前後して、カトリック教会の秘跡(サクラメント)のとらえ方は、教父たちの時代の秘義のとらえ方、とりわけ「受肉論」を見直すことによって再構築が始まりました。キリスト論、教会論、そして秘跡論と、すべての「しるし」は、「何の」しるしか? 「誰のための」しるしか? ・・・すべてイエスの人性に基礎があり、「恩恵の効果あるしるし」という定義やアウグスティヌスの「見えない恩恵のたまものが、経験可能なしるし(ことばとしるし)を通して確実に与えられる」の定義を現象学の立場から見直しているのです。)


 十字架の像を礼拝するとは、その像においてあらわされた神秘、御子と御父の救いの営み、私たちのために苦しみ、成し遂げられた神の愛をたたえ神を礼拝します。神がわたしのために苦しんでくださる。これはわたしたちのために与えられた信仰の神秘です。信じることができるのは、まさに信仰の賜物なのです。この神秘は、あの楽園を追い出された人類が再び信仰の国、恩恵の国に入るためのカギです。教会はこの信仰のしるし、信じる人々のしるし、信頼にたるしるしとならなければならないのです。


 講話 
 「聖なる霊、愛の火」(テゼ) 
 導入 詩篇25
    ヨハネ13章 1節~11節  
 「もしわたしがあなたを洗わないなら あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

 カインとアベルの捧げものについて、これは罪のなかでも兄弟殺しという社会的な原罪と言われています。罪には原罪と自罪があります。原罪はアダムとエバの罪で、神への不従順、つまり疑いが始まりですが、それは、カインにとって具体的な事件に発展します。弟の捧げものを受け入れる神に対する不信感です。神は公平でない。それは怒りとなってアベルを殺してしまうのです。

 原罪は洗礼によって赦されるという教義です。それは失われた神の似姿が回復されるということです。しかし、神の霊を受け入れる能力というものが回復しても私たちには傷跡が残っており、それが時にうずいて自分も罪を犯すことがあります。
 同じように、他人が犯した罪の結果、わたしたちはその影響を受けることになります。それを克服するのに生涯かかると言ってもよいと思います。

 どのようにそれが克服されるのか? 信じることによって・・・罪のゆるしと信じる共同体を作ることによって癒される。・・・ 

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