マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 聖パウロの回心

わたしは自分が信じてきたかたを知っている。そのかたは正しい審判者であり、わたしがゆだねたものを、終わりの日まで守ってくださる。(2テモテ1・12、4・8)

集会祈願  救いの源である神よ、あなたは使徒パウロの宣教によって、全世界に信仰を伝えてくださいました。聖パウロの回心を祝うわたしたちが、聖人にならって回心の道を歩み、真理を世界にあかしすることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、・・・
説教のポイント:

 説教のポイント

 パウロの回心という回心は、罪からの悔い改めの意味よりも、イエス・キリストという方に出会った体験のことです。昨年のシノドス(世界代表者会議)では、パウロの生誕2000年を記念してパウロの年が祝われていることにちなみ、教皇様に、「みことばが人となられた方の、神の言葉の神秘」について発表されるように願いました。教皇さまの最終メッセージには、大変示唆に富む言葉があります。

 「聖パウロも、最初のキリスト教の信条を述べ伝えるとき、聖伝から『受けた』ものを『伝え』なければならないことを認識していました。(1コリント15・3~5)、それはギリシア語原文では三つのことば、『ロゴス・サルクス・エゲネト』(ことばは肉となった)。これはヨハネによる福音書の序文という詩的・神学的な宝石の頂点であるだけでなく(ヨハネ1・14)、キリスト教信仰の中心でもあります。永遠の神のことばが空間と時間の中に入り、人間の顔と姿をとりました。」

 ダマスコの道の途上で、パウロは劇的な形で、復活したイエスの声を聞き、み顔を見ました。それはみ言葉が人となられた方との出会いでした。「サウル。サウル、なぜわたしを迫害するのか?」パウロが幼い時からイスラエルの神、「主」とお呼びしていた方の声と顔が現れたのでした。それはあまりにも衝撃なことで、彼は雷に打たれたように、あまりにもまばゆい光に目が見えなくなります。これまで暗闇にいたことすら知らなかったパウロが、復活したキリストの光に照らされます。そして、これは教会の歴史全体の方向が決定した出来事でした。教皇様の言葉を借りると、「神のことばがみ顔をもったことが啓示の中心です。だからこそ、聖書を知ることの究極的な目的は「倫理的な選択やこうまいは思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いは、人生にあたらしい展望と決定的な方向付けを与えるからです」(回勅「神は愛」)

 わたしたちの一人一人の人生の中で、わたしたちはこのような出会いが約束されています。聖パウロは、使徒言行録では三回、この劇的な出会いの体験を語っています。また、ガラテヤ書でも、フィリピ書でも、またコリント書でもイエスとの出会いの体験を語っています。この光の体験によって、パウロは「イエス・キリストは主」であると悟りました。パウロは、当時の最高の教師ガマリエルの下で律法を学び、律法の教師となるように教育され訓練を受けて育ちました。そして自分でも、ファリサイ派に属し律法の熱心さの点で非の打ちどころないほどだったと告白しています。しかし、それは熱心さのゆえに人を殺すほどの盲目に陥っていたのです。それは神のためよりも自分の義を誇るためにしていたことに気付きます。このような熱心さは、自分自身のため、自分の義を築くことにいたるのだと気付きました。そこから生まれる義は、自分自身のためだけの世界、自分の利益のために他者の運命を踏みにじってしまう義だと気付きました。

 「行いによってではなく、信仰によって義とされる。」パウロの洞察は、時代を超えていまもキリスト者の信仰生活の指針になっています。「行い」によってという意味は、自分の義を築く、すなわち自分の義を誇るという意味ですが、「信仰」によってという意味は、「わたしが今生きているのは、私を愛し、わたしのために身をささげられた神の子にたいする信仰によるものです(ガラテヤ2・20)。」とパウロ自身のことばで言い表されていることです。それは、「生きているのはもはやわたしではなく、キリストが私の内に生きておられる」と告白するほどの主がともにおられる神の愛の臨在体験です。


 旧約で、イスラエルの民は唯一の神ヤーウェ(YHWH)を「その名」で呼ばすに「主」と呼んできました。パウロは、この「主」の名を復活された方イエスに交換可能な名としてあてはめました。これによって旧約の出来事はすべてしるし、象徴として解釈でき、イエスが来るべきお方、旧約であらわされた神の属性をすべてイエスにあてはめることができました。新約は旧約のなかで隠され、新約のなかで旧約は意味を完成するものとなりました。わたし見たものは父を見たのだ。すなわち神を見たのだと・・・このためにパウロはユダヤ人から亡き者にしようと狙われ絶えず死を身にまとうものとなりました。

 パウロにとって、それはキリストに結ばれ、キリストともに生きる新しい方向づけとなりました。彼は異邦人の宣教師としてローマ帝国内の主要な都市を渡り歩きました。それは彼の過去のキャリアをすべて捨てるのではなく、彼が幼いころから学んだ律法の深い知識がキリストの光の下に、命の言葉の奉仕者恵みの分配者として変えられたのです。彼の人間的自然的能力が否定されるのではなく主の器として方向付けが変えられたのです。自分のためにでなく、キリストのため、教会のために用いられる器になりました。

 これがわたしたちにも起こる召命ではないでしょうか。突飛もない呼びかけではありません。それぞれの生活の基盤から呼び出されます。ガリレアの湖畔を歩いていたイエスは、弟子たちをご覧になって、「ついてきなさい」と呼びかけられました。弟子達は漁師でしたので、イエスは「人間をとる漁師にしよう」と呼びかけ、弟子たちはすぐに網を置いてイエスに従って行きました。その人の職業、タレントを生かす方向が与えられたのです。わたしも家は牛乳屋さんで牛乳を配達していましたが、イエスに出会って、いまはみ言葉や神の恵みを分配する奉仕者になりました。パウロもテント職人で律法の専門家でしたが、イエスに出会って異邦人の宣教師、神の神殿をつくる宣教師となりました。人間的なものが神の救いの計画に与かり神の働きをするようになるのです。なんと素晴らしいことでしょうか? わたしたちの賜物が主のために新しい任務を帯びる。これが私たちの召命です。

 今日の福音では、信じる者にはしるしが伴うと書いてあります。これらは、あまりにも劇的で、今日の教会の姿とは違うようですが、でも、私たちには秘跡があります。教会は原秘跡としての役割があります。しるしとことばを通して目に見えないイエスの現存が与えられ、恵みを受けます。教会は、まさに、このイエスとの出会いをもたらす秘跡をするところです。出会いがもたらす力とは、たとえば、アメリカの大統領です。オバマ大統領は、歴史のもっとも困難で危機の時期に、アメリカの負の歴史を克服して、一人の人格の中に、アメリカ人を一つにする変化をもたらす機運を作り出しました。彼がしるしになって、黒人社会に夢と希望を与えました。信徒の奉仕職も、教会の奉仕だけでなく、世に使わされる信徒使徒職があります。ご自身の職能を神の国、みことばの宣教のためにつかうことです。イエスのしるしとなることです。こうして世は神の愛に出会うのです。


 今年の大司教様の新年のメッセージ、キリスト者の成熟を育もうという呼びかけの中で、キリストの言葉にとどまるように励まされました。堅信の秘跡などの機会を通して神の恵みのしるしとして変容できるように進みましょう。

 祈りましょう。わたしたちの教会もイエスの出会いの秘跡となり、さまざまな救いの手段として用いられ、出会う人々に人生に希望と喜びをもたらせますように。神の助けを願いましょう。

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